白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

喫煙リラックス瞑想法

瞑想家としては、独自の瞑想法をいくつか持つ必要がある。

以前のエントリーで煙草を吸っていても瞑想していなさい、という話があったが、煙草は瞑想の格好のツールだ。

現在では煙草は健康に悪いというのが定説だが、長寿者に喫煙者が多いのはどいう訳か。私は喫煙歴40年だが肺がきれいだ。要は吸い方であり、吹かすようにして肺に入れなければ問題ないのである。

煙草というリラックスのツール、人類の大発明を利用しない手はない。リラックスして想念を一つにする。僕は煙草を吸う人が好きだ。次の結婚相手は、絶対に喫煙者にしようと思っているくらいだ。

因みに私は喘息を煙草で治す。発作が出ても吸う。それが瞑想法だからだ。

三流の医者は煙草を辞めないと喘息は治らないというが大嘘だ。現に私は治っている。

2016年の終わりに、一つの新しい瞑想法が出来た。

何も煙草嫌いの人が無理をしてこの方法を採用する必要はない。

般若心経的思想で戒律の無い瞑想理論を目指す。タブーは法律をき何もない。

では皆様、良いお歳をお迎えください。

2017年は次世代文明元年となるのでしょう。ではでは。

私は昔から瞑想家だった

2年と少し前、私は「新しい物語」という詩を書いた。

もう、人生に物語はいらない。喫茶店でアイスコーヒーを飲んで煙草をふかしている日常があればそれで良いと書いた。

私はいつも、そうしていた。本や新聞を読むでもなく、スマホをいじるのでもなく、ただぼーっとしているのが好きだった。いま思うと、これが瞑想だった。これが真我だった。

想念が乱れないこと。私は10代の頃から瞑想家だったのだ。

ただ、これが崩れることがあった。その要因が楽しさと忙しさだった。つい、何かに夢中になる。節度が守れなくなる。課題は熱狂の克服、節制ということだろう。

悟りを得てからも修行は続く。

瞑想家に終わりはない。

修行環境のちがい

パソコンが帰って来た。

マハルシにつていて考えている。真我はよくわかる。自己という虚構の想念を捨て、一つの想念で安定させること。これが理想なのか。

しかし、前にも書いたが低次の部分もおろそかにしてはいけないのだろう。昔は貧困でも食べて行けたが、20世紀という人類史上最悪の飢餓と貧困の世紀の中では、お金を無視することなど不可能だ。

マハルシの時代とは違うのだ。マズローの欲求6段階説も低次から高次へというモデルであり、一見、瞑想とは関係ないようでも、重要なポイントのように思えてきた。

つまり、凡人が悟るには、ある程度の経済的成功が必要になるということだ。

経済的に不安であっては、瞑想どころではない。そういう世の中なのではなかろうか。

グルは、私のこの見解に何と言うだろうか。大いに楽しみだ。