瞑想ができなくなった
瞑想家としては、とても書きにくいことなのだが、最近は無我・無想の瞑想ができない。邪念に包まれているかのようだ。
未だに「成功」などという死語について熱く語る奴を見て、うんざりした。
そんなことは、どうでも良い。また、次世代文明について考えてしまう。人口の7割が勤労に従事しなければいけなかった時代も、文明の進歩と共に、その必要性が、6割、5割、4割、3割と減るのではないのか。そうなると問題は雇用以外でお金をどう分配するのかという分配の問題になる。
そんなことも、どうでも良い。問題は真我だ。今日はKH氏について真我についての話を聞いた。
KH氏は真我の体験者だ。真我には時間がないという。真我は永遠だという。身体は私ではないという。すべての自我は私ではないのだという。私は在る。ただそれに気づくだけ。
特別なことではないとも、KH氏は言っていた。修行すれば3割は真我に到達するだろうと。
とりあえず、近況報告を兼ねて書いてみた。瞑想が復活することを願って。
真我の正体
「あるがままに」ラマナ・マハルシの教え、より。
瞑想とは一つの想念だけを想い続けることだ。
そのひとつの想念が他のすべての想念を遠ざける。
心の散漫は精神力の弱さの兆候である。
たゆみなく瞑想をつつけることによって心は力を得ていく。
つまり、移り変わりやすいこころの弱さが、その背後にある恒久的な無心状態に場を明け渡すのだ。
この無心の広がりが真我である。
純粋な心が真我なのである。
一瞬、真我が死に思えた。
節制のお年頃
4年前、こんなコラムを書いた。
「フールズ・ジャーニー」
「フールズ・ジャーニー」(愚者の旅)をご存知だろうか。これは、タロットカードの大アルカナをめぐる物語だ。私なりの解釈を簡単にまとめておこう。
「0:愚者」は生まれたばかりの子供。まだ何も知らないが希望に満ちている。
その愚者が、最初に出会うのが「1:魔術師」だ。これは世界を構成する要素を示す。愚者は世界が物質でできているということを学ぶ。
次に出会うのが「2:女教皇」。このカードは神秘と世界の二項対立を表したカードだ。愚者は対立原理と世界の神秘に直面する。
「3:女帝」はまさに女性の象徴であり、豊かな実りと、母性本能を表している。愚者はここで母を知り、安らぎを得る。
次に愚者が出会うのが「4:皇帝」。母性原理の次に知るのは、父性原理。愚者はここで厳しく教育される。
「5:法皇」は、社会の権威と秩序を示している。愚者は社会の中へと進んで行くのである。
「6:恋人」そして愚者は恋をする。人生の喜びを知り、世界はそれを祝福する。
「7:戦車」で、愚者は自信を持って前進する。しかし彼はまだ若く未熟だ。勝利は長続きしない。
「8:力」愚者は戦いを通して真の強さを学ぶ。それは寛容の精神を備えた懐の深さだ。愚者は大人になった。
「9:隠者」は物質的な世界への興味を失い、ただ自らの内面を探している。冬の夜、雪の中に一人立っている。これは愚者の姿。彼は悩んでいる。
「10;運命の輪」やがて愚者は、世界を支配する法則に気がつく。それは、時の必然であり、運命的なものだった。再び愚者の時計が動き出す。
「11:正義」愚者は正義に情熱を傾ける。社会的な地位を得て、世界の表舞台に登場する。
「12:吊るされた男」栄光の次にあるもの。それは献身だった。愚者は自ら進んで吊るされることを選んだのだ。奉仕すること。愚者は積極的に奉仕する。
「13:死」愚者はこれまで住んだ土地を離れ、新しい世界へと進む。一つの人生が終わり、新しい人生へと向かう。新しい世界へと進む時、古い世界は捨てなければならないのだ。
「14:節制」新しい人生の始まりで、愚者は節制を学ぶ。自然との調和。生命の根源を見つめて、愚者は悟る。
「15:悪魔」次に愚者は悪魔と出会う。悪は人間の欲望という本能の中にある。本能に留まりたいという思いに、悪魔は語りかける。それは自らの自由を放棄すること。それでも愚者は悪魔の言葉を聴いてしまう。
「16:塔」このカードには塔の崩壊が描かれている。死でリセットされたかに見える愚者の人生は、ここで完全に終わる。いや、この時はじめて、愚者は過去から、これまでの世界から解放されるのだ。真の新しい人生はここから始まる。
「17:星」愚者は星を見上げる。そして星の輝きに魅せられ、宇宙を思う。神の理想の世界。その中に自分がいるということを知る。愚者は自らの肉体を清める。
「18:月」神秘的な月の姿を見て、愚者は自らの内面に入って行く。深い瞑想の中で見えてくるもの。創造のエネルギーが満ちてくるのを実感する。
「19:太陽」夜は明け、太陽が大きく輝いている。愚者は再び子供の姿で世界に登場する。愚者は豊かな世界に到着したのだ。
「20:審判」愚者は復活した。すべての生命は再生される。歓喜と喝采の時。それは解放の時でもある。
「21:世界」愚者は最後のカードである世界にたどり着く。過去の体験が血となり、肉となって、やがて愚者は天に昇る。思い残すことは何もない。愚者は微笑みの中にある。
僅か22枚の大アルカナは、人生で学ぶこと、体験することの本質を示している。もちろん順番は自由だし、欠ける場合もあるだろう。タロットを用いている小説家も少なくない。
以上が4年前に書いた文章だが、今の私は14番の節制を学ぶときだと思う。放縦な私は放縦だった。酒、たばこ、賭け事、女。いい加減、節制を学べと天から言われているように思う。
急にやめるのは良くないので、徐々に控えよう。酒と煙草。節約は必須だ。
さて、この物語で私が思うこと。それは人生は二度、いや、場合によっては三度、四度とあるということだ。上の例では、最初は世俗の社会で生きていた主人公(愚者)が、やがて精神世界へと移り住む。主人公は体験を通じて変化し、成長している。
近代以降、成長志向、成功願望が当然のことのようになっているが、物質的な豊かさが真の豊かさではないということを、この物語は教えてくれる。稀にではあるが、良い顔をした老人に会うことがある。その顔には、その人の人生が滲み出ている。その美しさは、若い人の持つ美しさとは異質のものだ。良い顔の老人には、多くの経験と多くの思索の跡がある。さあ、人生を二度生きよう。もし、二度生きていたならば、三度目を生きよう。新しい世界は必ずある。
あけおめ
遅くなりましたが、新年、明けましておめでとうございます。
昨年より、身体トラブル、システムトラブルが発生しておりましたが、3月には復旧の見込みです。いま暫くお待ちください。
それにしても、マハルシの言う真我とは、想念の統一であり、受動的であり、植物的なものだと悟りました。そして私は般若波羅密多心経に至りました。戒律などどこにもない自由な世界。それもまた真我でしょう。
2017年はみずがめ座、アクエリアスの年です。私はアクエリアス。さあ来い、56歳の誕生日。
ある人は、50代は中年、60代は高年、70代は老年だと言いました。まだ中年なのか。目標とする「可愛いお爺ちゃん」には、あと15年以上あるのかと溜息も出ます。
大事なのは、焦らず、ゆっくりと進むこと。決して、自分を責めないこと。
こんな感じで、新年のご挨拶とさせていただきます。