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私は何人いるのか

自己観察法とは、起きている間中、自己観察を続け、思考、感情、動作、本能について都度メモをとるという方法だ。

 

そこには、観察する<吾(われ)>と、観察される<我(われ)>があるのだと教わった。ふむ、私は二人になった。理想的な形としては、吾が確立され、我を支配することなのだろうか。違うかもしれない。

 

そうこうしているうちに、今は我が吾に興味を持ち、逆に観察するという暴挙に出た。部下が上司を値踏みしている感じだ。

 

思うのは、私の吾は超放任主義で、権威主義的なところがまるでないということだ。いやだよ、こんな吾じゃ。上司を変えてくれと我は言いたい。

 

吾は吾で、我に期待していない。超がつくほど慎重に取り扱っているのが現状だ。

 

自己観察の効果が出るには、1年かかるらしい。その間、吾と我という分裂した私の確執が続くのだろうか。

 

吾は真面目人間だ。観察される部下の我が変われば、上司たる吾も変わるのかもしれない。変わる。嫌なキーワードだな。変わらなくても良いじゃないか。いや、変わらないと話にならないでしょ。揉める。迷う。引き延ばす。決断しない。

 

無我・無想の瞑想は、まったく出来なくなった。理由は不明。しかし、これは悲しいことだ。去年の秋は、あれほど<無>になれたのに。

 

自己観察ではキーワードを列挙して行く。大量の単語が並び、大量の重複がある。これをジグソーパズルのピースにして、客観的に自分の全体像を見る。とにかくメモに慣れることだ。飛んでもないキーワードがいくつもある。公開はしない。

 

<吾>と<我>という設定に若干の違和感もある。多重人格ではないが、作ればいくつでも私を作れる。今、吾は傷ついている。我は吾に気を使っている。不思議な私の私の中の私。

自己観察の四つの次元

何となくという感じで、数日前から自己観察を始めている。

ミクシに師匠がいるのだが、名前を出して良いのかどうか分からない。とりあえず出さないでおこう。

さて、自己観察は起きている間中続けられ、都度メモ帳に書き込む。やりはじめると、これが楽しくなる。なお、自己観察は以下の4つの次元を見る。

1.思考

2.感情

3.動作

4.本能

分析はしない。ただ、記録をとる。処理するのは半年以上経過して、データが蓄積されてからだと言う。

思考。あと1年は静養だなと思う。病状が落ち着かないと何をやってもマイナスだろう。感情。安定している。動作。動作が少ない。本能。空腹。都度書くので、1日1ページになる。

師匠はこれを瞑想だという。

別枠の瞑想も継続だ。なぜなら、やることが無いから。とにかく精神病から離脱しないといけない。やっと、そういう気持ちが芽生えてきた。良いことだろう。

宇宙の意思と生きる意味

何やらスピリチュアルなタイトルだが、現在の私の関心はこの辺りにある。

 

宇宙に意思があるのか、と問われるならば、宇宙とは意思であると答える。そして私もまた宇宙の一部なのだと。

 

生きる意味。世俗的な成功が生きる意味だろうか。人類社会に尽くすことが生きる意味だろうか。本当の意味など存在するのか。意味は必要なのか。

 

優れた言語学者なら手際よく意味の体系を整理できるようにも思う。そして、意味とは意味の連鎖であることを図示するだろう。

 

生きる意味。それは必要ではなく欲望に属する。崇高なものを求めるなど、なんと欲深いことだろうか。

 

先に私は、宇宙とは意思であると言った。であるならば、宇宙の意思を知り、宇宙とシンクロナイズすることが生きる意味かもしれない。

 

大丈夫か、俺。

ポップでカジュアルな瞑想にしよう

ネット上で某氏より、しきりに「自己観察」を勧められている。しかし、今一つ気が進まない。観念を強固にするだけで、真我から遠ざかるように思えるのだ。

 

真我。これもまた分からない。これは自分ではないという否定を繰り返し、最後に残った自分が真我だという。もちろん、身体は自分ではない。私の目指す瞑想とは、少し違う気がする。

 

もっと、ポップでカジュアルな瞑想で良いのだ。日課として、アルファ波を出せば良いのだ。瞑想で世界が変わると大袈裟に考えすぎていた。宇宙の意思? 量子? そんなものはどうでも良い。

 

無我・無想の瞑想は、今も毎日チャレンジしているが、去年のように上手くはいかない。それでも、脳内にアルファ波がばらまかれた感覚を得ることはある。継続は力なり。何かを求めるのではなく、ただ瞑想の時間を楽しもう。求めてはいけない。

 

おかしいな。涅槃を生きているのでは無かったのか。ご勘弁を。