思い出すのはやめよう
記憶が薄れ、思い出せないから
思い出すのはやめよう
いまと比較して、苦しくなるから
思い出すのはやめよう
明日へと進めなくなるから
明日を思おう
そこに希望を見つけよう
未来を信じて
今を生きよう
過去は消し去ろう
それは重い荷物
そんなものは捨てて
今を生きよう
未練は毒
醜いもの
すべて捨てよう
思い出すのはやめよう
記憶が薄れ、思い出せないから
思い出すのはやめよう
いまと比較して、苦しくなるから
思い出すのはやめよう
明日へと進めなくなるから
明日を思おう
そこに希望を見つけよう
未来を信じて
今を生きよう
過去は消し去ろう
それは重い荷物
そんなものは捨てて
今を生きよう
未練は毒
醜いもの
すべて捨てよう
障害年金を取得して6年になる。まさに転落の6年だった。振り返ると長くなるので、現状についてだけ書こう。
週1回の精神科通院。週1回の訪問看護。週2回のヘルパー。週に3回前後は地域活動支援センターに行っている。そして、暇な時間は、命の電話や寄り添いホットラインにかける。すっかりと障害者世界に染まった生活。帰属が精神障害者なのだ。
病状は安定しない。むしろ、悪くなっている。そして、制度設計された福祉システムの中で生きているのだなと実感する。正直に言うと、もう、一般世界が怖い。ケアされることに慣れ過ぎた。それでいて、障害者世界にも満足していないのだ。
なぜだろう。帰属が精神障害者だと嘯きながら、それを快く思っていないのではないのか。自分の中で、精神障害者概念を再検討する必要があるのではないのか。
地域活動支援センターに集う人々。同病者の方々。仲間。居心地は悪くない。だから、それで良いのかと思ってしまう。未来が無いんですよ。目標も何もかも。
それは制度ではなく、自身の問題だと言われれば、それまでだ。目標だって。私らしくないな。「障害者世界の居心地」と題したが、だんだんと障害者世界が見えてきたところだ。染まりたくない。しかし、すでに染まっているのだろう。問題は孤独。一人暮らしで身寄りがないことだ。真剣に彼女を作ろうか。しかし「お金がなければ、彼女は出来ない」という女性チームの合唱にあう。ああ、私は孤独と戦っているんだ。勝ち目のない戦いだ。なにで孤独を埋めれば良いのか。居心地の前に、大問題があった。
ニートは美しい。悪しき社会、悪しき雇用に巻き込まれることなく生きている。これが美徳でなくて何だろう。現代の貴族、それがニートだ。
悪しき社会だって。どこが悪いかだって。いちいち列挙しなきゃいかんかね。ふむ、俺には知能がない。その悪しき社会のお蔭でニートも生きてるんだって。それはそうかもしれんな。だから、ニートを現代の貴族として美化することに何の意味があるのかって話。おいおい、標題を否定されたか。
社会は最善ではないが、最悪でもない。それが妥当な見解だろう。
でもね、嫌なこと、理不尽なことも多いよね。嫌な奴も多いよね。
ニートへの嫉妬。わからないでもない。
毎日、朝から酒飲んで、タバコ吸って、ネットして。お気楽で良いよね。
ニートは悪と関わらない。やっぱりニートは美しい。おい、どんな論法だ。今日もいかれてないか。
あ、俺、ニートだからね。現代の貴族だからね。よろしく。
私は5年前に、こんな文章を書いている。
「お気楽系」とは脳天気のことではありません。もちろん、能天気な人に「能天気をおやめなさい」と言うつもりもありません。そんな干渉はよくない。また、脳天気な人ならば、この文章を読むこともないでしょう。
「お気楽系」とは、余裕のあるしなやかな構えです。おかしな成功幻想に駆られることも、精神世界に救いを求めることもありません。いわば、現代における成熟。それが、「お気楽系」です。
「お気楽系」から連想される言葉。それは「しなやかさ、自然な、自由な、生き生きした、みずみずしい」といったものです。あるいは「奔放な、余裕がある」といった言葉を付け加えてもいいでしょう。定義として曖昧だ、と怒られるかもしれませんが、真面目過ぎないというのもお気楽系の特徴なのです。
さて、なぜいま「お気楽系」なのか。これは、現代日本社会を分析したうえでの一つの結論です。いま、お気楽系が不足しています。そして、お気楽系が求められているのです。お気楽系が求められる背景には、以下のようなタイプの衰退があります。
1.人生設計という保守的な考え方が破綻した。
2.上昇志向の空気が薄まり、閉塞感が漂っている。
3.スピリチュアル・ブームにも陰りが見える。
4.おたく文化も行き詰まりを見せている。生き方はいろいろあって当然です。むしろ多様であるべきでしょう。しかし、生き方の選択を間違えると自らを苦しめ、人生を楽しめなくなってしまいます。「お気楽系」も一つの選択肢。決めるのは自分自身です。
では、お気楽でいられるための一番の条件。それは自信です。では、自信とは何でしょう。ある事柄についての自信ならともかく、漠然とした自信とは何でしょう。漠然とした自信とは、多少状況が変化しても生きて行けるという見通しがあることです。つまり、将来がたとえ予定通りにならないとしも、「なんとかなる」という楽観的な態度。これが自信なのです。
もちろん、根拠があるかもしれない。健康であったり、技能があったり、対人能力に優れていたりといったことも要因になるでしょう。しかし、同じような能力、要因を持ちながら、同じような状況にありながら、自信が持てる人と持てない人がいます。それは単に、性格の問題なのでしょうか。答えはノーです。自信は思考トレーニングの賜物です。適切な思考を積み重ねることが自信に繋がるのです。
世界は常に不条理に満ちています。不公平も不平等も存在します。賄賂も犯罪も残忍さもあります。それは、受け入れ難いものですが、まずは、良い点にも目を向けて現状を受容することです。これは社会についてだけでなく、自分自身についても同じでしょう。
ある程度の寛大さをもって現実を受容したうえで課題を設定しない限り、いかなる批判や抵抗も望ましい結果を生むことはないのです。
繰り返しになりますが、お気楽の第一の条件は、適切な思考に基づく自信です。その基底には、現状の肯定的な受容がある。それは、決して批判精神を持たない「ことなかれ主義」ではありません。そうではなく、このような態度こそが、より本質的で鋭い批判や、意味のある問題解決を可能とするのです。
2013年11月19日 お気楽文化研究所設立準備委員会代表 ジェイ・ロバート
ジェイ・ロバート時代のことだ。今よりは幾分、明晰だった。「適切な思考」いまはこれが欠けている。もう、俺は、お気楽に生きるのがベストなのではないのか。そうだ、お気楽革命を体現するのだ。
そんな訳で、朝から「角ハイボール濃いめ350ml」を飲んでいる。守護霊が酒に逃げろとうるさいからだ。おいおい、どこが「そんな訳で」なんだ。文章がおかしいぞ。
「適切な思考」だ。「思考の回復」だ。意外なことに、それが原点なのだ。さあ、思考しよう。