白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

規範のクラスター化と権力の新しい形

先日のある会合での、女性の社会学研究者どうしの会話が異常に頭に残ってしまった。

A氏「恋愛も結婚も勉強も就職も、今の時代にはテンプレートがあるのだから、その通りやればうまく行くのに、テンプレートを知らない人、知っていてもできない人がいるのが問題なんです」

B氏「私にはテンプレートに従って動ける人たちの方が驚きです」

 会話はこれだけで終わった。絶望的に共有できるものがない。これが学者同士の会話だろうか。その薄っぺらさに、俺はかなり衝撃を受けた。

マスマディアの時代から、ソーシャルメディアの時代となり、社会の太い文脈が弱体化した。ネット上で、思想や嗜好が似た者どうしが次々とクラスタを形成して行く。これは、生活そのものの、社会の変容であるとともに、従来の規範の液状化という現象を引き起こしている。

社会規範が弱まることは権力にとっての脅威だ。そこで、敵国を想定したり、マイノリティを非難し抑圧することで求心力を作ろうとする。それが憲法改正による人権の制限であったり、秘密保護法であったり、生活保護関連諸法の改正であったりするのだが、これらは法改正はもちろん、その動き自体に恫喝的なメッセージ性があるということが重要なのだ。

 弱者は別の弱者を敵とみなして相互に攻撃する。生活保護受給者をバッシングするのは主に低所得層だという事実。共通の敵を作ることでしか仲間を作れない弱者の哀れさと怖さがそこにある。そして、その心理を政治は巧妙に利用しようとする。

規範はクラスター化している。階層はフラグメント化している。今の日本では、社会や国家の紐帯はなくなりつつあり、断絶と分裂が進行中だ。識者はこの状態を問題視するが、無理に紐帯を強制されたり、デザインされたりするのも迷惑な話だ。規範も制度も、これからますます液状化するのだろう。俺は液状化をくいとめるのではなく、液状化した状態の中でどう生きるかを考える方が賢明だと考える。過剰な反応や組織化など、逆に権力の思う壺ではないだろうか。そこは相手の土俵だ。戦略とは勝てる土俵で戦うことだ。俺は相手の土俵で戦うほど馬鹿ではない。

現代においては、組織化して抵抗するという古い方法では失敗が明らかだ。インターネットという監視社会の中で、あえてどこにもコミットせず、液状化した領土に身を置いて軽やかに走りまわる。やがて社会の規範は再編成されるだろうが、構築主義的なものは失敗し、最後は権力と自生する者たちとの調停という形に落ち着くのだろう。まあ、これはかなり楽観的な予測だが。

ここでは一番大事な、規範とは、クラスター化とは、権力とは、という問いと定義を省略した。これは戯言であって論文ではない。そこのところは、よろしくお願いします。