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自由と人権を嫌う日本人の深層心理

驚くべきことに、日本では「権利ばかり主張するという非難」が言説として成立し流通している。今日も某国会議員がそんなことを言ったらしい。それを報道するマスメディアも、なかばこの言説を支持しているのだろう。権利を主張するのは当然のことだ。それを許さない日本社会とはいったい何なのか。なぜこうも日本は近代を嫌うのだろうか。

考えられるのは、多くの日本人が敗者であり弱者であるということだ。それは自由で公平な競争の中で勝てなかった人、あるいは戦いの中で苦しんでいる人たちだ。単に経済的な側面での話ではない。一生懸命に処世術を磨き、奴隷根性を正当化する人々。こういう人々は、自由を謳歌している人を腹立たしく思う。そういう精神構造から、出る杭を徹底的にたたくし、溺れる犬には石を投げる。ここでは、彼らのことを「負け犬族」と呼ぶことにしよう。

負け犬族は目上の人間に媚びる。特権階級に媚びる。そして自由を謳歌している市民の、自由や人権を憎む。心理学でいう引下げの心理が働いてくる。現政権はそういう人々の増加を好感し、彼らの意向を政治に反映させる。つまり、貧困を推進し、自由と人権を略奪して行く。もちろん、表向きには経済成長と国家の自立という美辞を掲げて。

一億総中流という幻想の後に一億総貧困という現実があっても不思議ではない。現在の生活保護バッシングは、ワーキングプア層の「私、生活保護に負けそうよ」という怒りの心に火をつけたことで始まった。問題は生活保護ではなくワ-キングプアという社会構造だというのに、問題はすっかり逆転してしまった。

自由とは過酷なものだ。資質と努力で勝負は決まる。言い訳があるとすれば、それは「運」という言葉でしかない。だから負け犬族は自由を恨む。自ら奴隷の道を選択しながら人権に敵意を持つ。そして、そういう人々は集団を作り、一部は街宣までする。

負け犬族とは、所得や地位で規定されるものではない。それは精神構造によってのみ規定される集団だ。負け犬族を従えて威張っているのもまた負け犬族なのだ。いったい彼らと、どう対話が成立するというのか。

負け犬族に同情することはあっても、共感してはいけない。そして、くれぐれも自分自身が負け犬族になってはいけない。日本はいま、負け犬族の国へと向かっている。これが日本の民主主義なのか。これが日本人らしさなのか。大いなる美徳は、同時に大いなる欠点でもある。強要された自己犠牲など自己犠牲ではないのだ。素直さという美徳は、騙されやすいという欠点だ。そして騙された自分までをも美化してしまうのだ。さらに、日本の為政者は歴史的に負け犬族を手なずけるのが得意である。

知性は飾りではない。いまこそ、それを証明しなければならない。ここが正念場だろう。