白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

世界という劇場の通行人

世界とは劇場である。交通や通信の発達した現代では、世界中の劇について知ることができるし、実際に劇に参加することもできる。戦争、テロ、事件、事故、スキャンダル。これらはもはや現実である以上にエンターテメントだ。

こんなことを書くと、冗談ではないと激怒する人もいるだろう。もちろんだ。私もそれがエンターテイメントだとは認識していない。そうではなく、それをエンターテイメントとして認識している人が大多数であるということへの憂慮を言いたかっただけだ。

三流の哲学者ならば、マクルハーンやボードリヤールを援用するのだろうが、超一流を自負する俺はそんなことはしない。俺は専門の世界や専門用語に逃げない。哲学は一般言語で行われなければいけないというのが俺の信条だ。

さて、日本という劇場も原発やTPP、生活保護や秘密保護法、ヘイトスピーチやストーカー殺人などでヒートアップしているし、アメリカではデフォルト騒動が勃発し、シリア問題は隠ぺいされ、今もアメリカの無人爆撃機は毎日市民を殺害してオバマを歓喜させている。

市民。いつのまにか市民に昇格した人々は、後ろめたさを抱えながら社会に参加し、有利なポジションを得るべく行動する。「市民とはなにか」を考えることもない市民が大多数であることの滑稽。そんな滑稽な人々が街に溢れる。

「人間なんてそんなものさ」不貞腐れてそう呟く。
「いいかい。世界は劇場なんだよ。世界とはゲームなんだよ。そして誰もがゲームのプレイヤーなのさ」

その通りだろう。ゲームに参加しない自由はない。市民であることも拒否できない。それが自由の基本なのだから、そこには根本的な倒錯がある。

社会派と呼ばれる人たちはツイッターを手に呟きながら歩いている。それは行動ではなくただのノイズだ。脚本にはない科白の数々。もっとも、俺には見え透いた芝居よりもノイズの方が面白い。その無力さを自覚している人々の中にある呟くことへの責任感に安堵する。

ああ、これはテクノロージーが生んだ自由などではないんだ。そここそが権力が用意した監獄の中なのだ。インターネットという奴は自由の看板を掲げた監獄だ。世界は一つの監獄だ。資本は世界を占領しようとしているのだ。そんな馬鹿な。それだけは信じたくない。しかし・・・。

世界が劇場である限り、そこには悪人がいて、暴力があり、事件がおこる。平和というやつは消極的な形でしか実現しないのであって、積極的平和とは戦争のことだ。そういえば安部首相は積極的平和を目指すと発言したので、そういうことなのだ。

繰り返しになるが、市民をやめる自由はない。法学的に言えば、すべての責任は市民にある。まことにデモクラシーとは不自由なものだ。こうも言える。世界という劇場の主役は通行人なのだと。貴方も私も、世界の主役なのだと。さあ、顔で洗おう。