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真の欲望を突き進め

欲望を中断し、内的欠如、至高の超越者、見えすいた外部、という三つの亡霊に、欲望を依存させる基準を排すること。(「千のプラトー」ドゥルーズ=ガタリ 河出書房新社 より)

俺のような一流の哲学者でも、ある程度社会的に成功しておきたいと思うことがある。しかし、そのような腐った欲望は捨てなければならない。真の欲望はなにか。それはこの時代の狂った言説を、狂った常識を、完全に粉砕する一撃を放つことだ。ただ、ただそれだけだ。

これは困難な事業である。不可能だと言う人もいる。しかし俺はこの、渾身の一撃のために生まれ、そしていままで生きてきたのだ。時には戦略を練って、時には衝動で。いまのところ成果は見えないが、私はただ欲望に従って進む。これは生きることと同義なのだ。

ありふれた手段ではダメだろう。論文を書いて出版するとか、政治団体を作るといった組織化、ジャーナリズムへの参入、そんな敵の土俵で勝負したのでは勝ち目がない。俺は真剣に勝利を考えているのだ。

そして、これは権力への挑戦などではなく、大衆への挑戦だ。被雇用者という新奴隷階級に甘んじている多くの人々の人間性への覚醒を企図した一撃。それが映像なのか、音楽なのか、文学なのかは決めていない。協働なのか、他力なのか、システムなのかも決めていない。

これは、若くしてこの世を去った伊藤計劃の意思を引き継ぐものでもある。彼は結論を探した。しかし、俺は結論を必要とはしていない。人間性を放棄することで社会に適応することの人類学的な危険性を伝えたいのである。あの手で、この手で、この足で。

弱者は雇用でしか生きられないという反論はあるだろう。しかし、だからといって現在の日本の被雇用者の奴隷的状態を肯定してよいのだろうか。その「生存至上主義」が、事態をどんどんと悪化させ、民主主義を破壊しているのではないのか。

文化も人間も多様なのだから、欲望も多様だ。社会的あるいは経済的な外在的欲求や目標もあれば、プロセスを楽しむという内在的欲求もある。しかし、それは本当に真の欲望なのかという点には注意が必要だ。それらは多くの場合、押し付けられた欲望だからだ。重要なのは、人間としての真の欲望でしかない。

無駄な欲望を捨てよ。真の欲望をつき進め。そして突破せよ。

もっとも、突破ではなく大破する確率の方が遥かに高いのだが、大破もまたよし。奴隷的生存よりは、きっと美しい。