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三流学者の床屋談義あるいは知性の敗北

学者という肩書きと薄っぺらい知識を利用して、自らのイデオロギー的なものを開陳することで人気を得ていう三流の学者の言説が害毒であることは言うまでもない。もっとも、それに共感する大衆も大衆だが、大衆は地位や肩書にとても弱く、考えるだけの力も知識も不足しているので、単純な言説を信じ込む。最近は学者だけではなく、学者崩れや学者もどきもネットの言論の場に参加して、おおよそ学術的ではないミーハー・ブログで人気競争をやっている。まったくもって、これは知性の敗北である。

マスメディアの時代にも御用学者はいたし、学術的権威こそ優先すべきだと主張するつもりもない。ただ、あまりにもレベルの低いメディア(新聞、総合誌、ネット)での言論に、知的レベルの高い多くの市民がうんざりしているという現実もある。そのような人々は言論のインフラ、あるいはアーキテクチャーに懐疑的であり、一定の距離を保とうとする。こういう階層が厚みを増すというのは好ましいことではあるが、劣化するメディアという問題の解決にはならない。

三流の学者は、喜んで政治や資本の犬になる。メディアを賑わす学者のほとんどは犬だ。そこにあるのは知的な対話や議論ではなくドッグショーだ。そんなものを見ながら(あるいは読みながら)、大衆は知的活動をしていると錯覚しているのである。当然ながら大衆の数は市民より多い。これだけでも日本の民主主義の全体像が見えてくるだろう。嘆いても意味がない。あくまでも言論で戦うしかないのだ。そして、それにはメディアを変える必要がある。

そんなわけで、俺は当分このブログを休むことにした。「三流学者の床屋談義」という土俵での勝負について、ゆっくりと考えたいと思ったからだ。民意は政治家を選ぶだけであって政策を選ぶことはできない。そして、いまの安倍政権が戦後最悪であることは明白だ。事態は緊急であり、残された時間はあまりない。このままでは、5年とかからずにブログもツイッターも自由に書けない時代が来てしまう。うむ、煽ってるかな。(笑)

世界の歴史は「自由の拡大」という方向で進化してきた。いま、日本がこの歴史に反旗を翻している。多少とも歴史を知る人であれば、その結末は簡単に予測がつくに違いない。いまこそ、知性を結集する時だ。しかし、どうやって・・・。まあ、俺に考えがある。そのうち、このブログも再開する。お楽しみに。