白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

14.活動に対する存在の優位

幸福の源泉は活動から生まれる喜びだと言われる。活動とは、製作、スポーツ、演奏、演技、ゲーム、料理、創作、などなど何でもよい。熱中し没頭できる好きなことをやる。真の幸福はこうした活動からしか得られないとまで言う人もいる。

もちろん活動自体が楽しいだけでなく、ある程度の成果が出ると評価されるし、仲間との交流も生まれるだろうし、称賛をあびることもあれば、報酬が生まれることもあるだろう。活動することの内在的な喜びと共に、外在的な喜びを得ることもあるし、それもまた一つの目標になる。

ただ、だれもが活動の対象を持てると言えるだろうか。楽しみを見つけられない人はたくさんいる。実は私もその一人だ。昔はいろいろな楽しみがあったが、ある障害を抱えることとなり活動すること自体が難しくなってしまった。まあ、それでもこうしてブログを書くという活動を楽しめているのだから重症ではないだろう。しかし、本当に何もできない人というのは少なくないのだ。そういう人に活動を奨励するというのは、時に残酷なのではないのか。ふと、そんなことを思った。

はたして喜びは活動からしか生まれないのだろうか。そこで考えられるのが、存在していること自体に喜びを感じるということだ。これは、自分自身の人間性に対する信頼から生まれるものだ。優しさや、寛容といった人間としての在り方に自信を持つこと。そして、失われた活動に対する挫折感や敗北感を捨てること。そうして存在自体に自信が持てるようになれば、生きているすべての時間から満足が得られるように思う。

また、この存在自体への自信は、活動できる人にとっても大切なことだと思う。活動する人自身が素晴らしい存在であるならば、その活動もまた輝きを増す。

活動と存在、どちらが重要かと言われれば私は迷うことなく存在だと答える。自分が出来ていなひとが活動で成功することは珍しくない。しかし、私は人を活動だけでは絶対に評価しない。たとえ功績や成果が無くとも、人間としてどうか、ということが一番大事なことだと考えるからだ。

まずは人間を磨こう。この言葉は私自身に対する励ましだ。誰に対しても開かれた態度をとること。優越感や劣等感と無縁であること。できるだけ優しく、寛容であること。どうやら課題は山のようにある。

動物たちを見よう、彼らは何も生産的な活動をしていなくても、生きている瞬間、瞬間において満たされているように思う。生きるとは本来、ただ生きているだけで満たされているという状態ではないだろうか。生きるということに、価値も、意味も、比較もいらない。まずは今、満たされていると感じること、自然な状態を感じることだ。これこそが活動に対する存在の優位であり、この基盤を持たない活動はすべて虚しい。まずは今を楽しもう。それが寝たきりであっても、介護を受けている状態であってもかまわない。自然でありさえすれば、狂った価値観に汚染されていなければ、それは常に可能だ。今という瞬間には再現性がない。今ここを生きる。今ここに喜びを感じる。それが活動に対する存在の優位。

(2013年7月)