白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

20.国家と雇用そして勤労の地平線

国家の伝統的な役割の一つに国民を食べさせること、近代以降は特に労働の機会を提供することがある。そのために雇用を確保するとともに国民には勤労の義務を課す。お金が必要で、働く機会があるのであれば働きなさいという訳だ。そして、国民の側もまた、政府に雇用機会を要求し、賃金水準などの労働条件や労働環境の改善を要求する。あたかも当然の考え方のようだが、私はこの考え方自体を見直すべきだと考えているのである。

生産性の飛躍的な向上期には経済成長という余地があった。経済成長によって誰もが豊かになり、幸福が増すと考えられていた。しかし、この「成長期」は歴史的に見るならば特殊な時期だったのだ。今は先進国の経済成長はグローバル化によって途上国の成長余地を食べることによってしか実現しない。途上国は確実に成長するだろうが、そこには深刻な環境問題や石油資源、食糧資源などの問題が横たわっている。中国やインドなどの大国が欧米先進国のような消費社会になることは、趨勢であるとともに脅威なのだ。

このような世界経済の中にあって、国家間の競争に勝つことが重要だとする従来の発想は役に立たなくなっている。一つには、コーポラティズムという言葉に象徴されるように、政治が多国籍企業に支配されているという現実がある。そしてもう一つが、成長することで自らの生存基盤を毀損しているという事実である。

私たちは今、働くことで賃金を得て生活するということが普通の生き方だとする常識を疑う必要があるのではないのか。というのも、現在の先進国で政府が雇用を創出することは困難であると共に意味がないように思われるのだ。従来の考え方で政策を展開した結果が、労働条件の悪化、格差の拡大と貧困の増加、さらには定年延長や生涯現役でなければ生きて行けないという悪い状況を招いていると考えられる。

今の日本は需要不足に悩まされていると近代経済学の信者は言う。しかし、需要不足を問題視するのは「経済成長」というスローガンを絶対視しているからであって、近代経済学という信仰を持たない私にとっては供給不足よりずっと良い状態だ。

ネオリベラリズムの思想が支配している現代のグローバル社会は、目的そのものを見失い、巨大資本の支配下にあるメディアによって未だに「成長」を是とすることで自らの権力を維持、拡大しようとしているだけではないのか。

近代化によって、私たちは地域社会や家族という第一次集団を脆弱化されるとともに、個としての自立という言葉のもとに、どんどんと社会の中で孤立してしまう人を増やしている。私はこのような現状の中で、政府は雇用の責任を放棄するとともに、国民に対する勤労の義務も解除することが望ましいと考える。

では、お金のない人はどうするのか。それには社会保障なり、ベーシックインカムなりの制度で対応すれば良い。財源は国債で賄えば良い。今も日本では、あれだけの財源を国債で賄っているのだ。その使い道を変えれば良いだけの話だ。今の日本は富の再配分が上手く行っていない。今考えるべきことは、生産や成長ではなく、再配分のシステムを民主的な手段で変更することなのである。

もっとも、このようなシステムを実現するのは政治より前に市民の意識だ。政府に雇用を期待しないこと。勤労を美徳と考えないこと。社会システムに支えられて生きることを屈辱だなどと考えないこと。違法な労働条件のもとで無理な労働をすることは悪徳だと理解すること。つまり、新しい雇用と社会についてのビジョンを誰かが打ちだし、それに共鳴する人が増えなければいけない。

高額納税者も生活保護受給者も、等しく制度によって支えられた存在である。威張るものでも、恥ずかしがることでも無いだろう。世の中には強者もいれば弱者もいる。社会が強者と弱者の戦いになるならば普通は強者が勝つ。そうではなく、誰もが納得できる経済的、社会的ビジョンが示される必要があるのだ。

(2013年4月14日)