白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

21.道化師の不在

いよいよ「カオスなコラム21」も、これが最後の記事だ。最後は道化師。私は20代で会社に入ったころ「土俵際の道化師」を自認していた。上司に平気で反抗して笑いをとること。それが私の喜びだった。実際に、お前はいま土俵際だぞ、と言った上司もいた。そんなことは分かっていた。それでも私には自信があったのだ。後悔などない。いったい後悔することに何のメリットがあるのか。反省と後悔は異なる。嘆きに美学的な価値を見出すならば、それは個人の趣味の問題だ。前置きはこのへんにして本題に入る。

中世ヨーロッパの宮廷には道化師がいた。いまも国王の宮殿には道化師がいるかもしれないが、それは秘密とされるのだろう。中世ヨーロッパの宮廷には占い師がいた。いまも国王の宮殿には占い師がいるかもしれないが、それは秘密とされるのだろう。

タロットカードのゼロ番は愚者=道化師だ。ウエイト版では崖の先端に立つ少年と、そこが危険であることを告げる犬が描かれている。無邪気であること。それは道化師の本性の一つだ。以前、私はこんな小文を書いた。

愚者とは何か。それは常に世界の外部に置かれる者、そして世界を知る者のことだ。あらゆる権力、あらゆる権威にとって、それは脅威であり邪魔者だ。愚者は道化という手法を用い笑いを味方にする。愚者はその霊的な力で真実を見抜く。そして無邪気に真実を語る。
賢者は世俗に服従し真実を語らない。いや、賢者とは真実を見ようとはしない者のことだ。愚者は見る。いまや喪失の危機に瀕している「見るという行為の力」を発揮する。愚者は自由に想像し、創造する。愚者は悲しい世界の中で、まだ見ぬ愚者を求めて旅する。

近代合理主義によって失われたもの。その最大なものが「想像力」なのではないのか。小人も妖精もフィクションとされ、宇宙の万物が科学によって説明できるという教義が世界を席巻している。この考えかた自体が科学ではなく宗教なのだが、意外なことにそれを理解している知識人すら少数派なのだ。私たちはある意味で悲しい時代を生きているのではないのか。豊かさという線分に矮小化された価値という妄想に獲りつかれているのではないだろうか。

宮廷道化師は真実を語ることを許されていた。王を笑わせることはもちろん、王を笑うこともまた許されていたのだ。王は賢明だったのだ。自らが完全ではないことを知っていたのだ。そしてまた、自らを笑うだけの余裕があったのだ。

果たして現代のリーダーたちに、道化師を許容するだけの器量があるだろうか。合理主義の外側にある想像力を楽しむ力があるだろうか。

「お笑い」という世界がある。しかし、いまの日本の「お笑い」はメディアという権力に支配され、いくつものタブーを持ってしまった。そこには道化師がいない。芸人は権力構造の一部となり自由がない。これは一般市民にとって不幸なだけではなく、権力や権威にとってのリスクでもある。つまり、自らの過ちに気がつくことがないということだ。

今の時代に道化師として生きることは命懸けだ。私も二十代の頃は土俵際の道化師などと嘯いていたが、いまは道化師ではない。ただの愚者であり、誰も笑ってくれなくなった。

道化師の不在。それは人間社会の危機を意味している。わけのわからない電波や化学物質や磁気といった科学の進歩の影響は地球環境に、そして人間自身に及んでいる。近代合理主義。その爪痕が道化師の絶滅だ。なにも神秘主義で行こうという話をしているのではない。そうではなく、科学が絶対で万能だという洗脳を解く方策を探しているのである。世界は道化師を待ち望んでいる。