読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

グダグダする時間と時代の針

■グダグダする時間の地位

一昔前は「家族や友達とグダグダする時間」など無駄でしかないので、そういう時間の使い方はやめて「生産的」なことをするべきだという考え方が支配的だった。余暇時間の拡大というスローガンはあったが、それが意味したのは消費行動であり、それに付帯した活動的な時間であって、グダグダする時間ではなかった。

しかし最近では、「家族や友達とグダグダする時間」こそが楽しいし、大切なのだと考える人が増えている。この大きな流れの変化の原因は、失われた20年という結果を踏まえての反省と後悔なのではないのか。具体的な調査はしていないが、高度成長期とバブル期の行動原理と生活様式の特異性あるいは異様さに気がついたということではないのか。

生活水準という言葉が消費支出で測られることに疑問を持つ人は少なかった。誰もが未来は誰もが豊かになると信じ、豊かになれば幸福になれると信じていた。しかし、現在の富裕層は幸福だろうか? 中間層は幸福だろうか?

退職した高齢者の中にはサラリーマンになったことを後悔している人が少なくない。確かに収入は多かったが支出も多かった。支出の多くが体裁であったり、多大なストレス発散のための飲み代だったのだ。より高価な家、より高価な自動車を持つことが目的であり自慢でもあった。誰もが消費社会に洗脳され、与えられた欲望に従順だった。もちろん、欲望を与えたのはテレビ・コマーシャルだけではない。そこには時代の空気があり、時代の文法が作られていた。もちろん、背後に資本や権力があったことも事実だ。しかし、それはどの時代にもある当然の活動でありガバナンスの一貫でもある。問題はテレビという装置と宣伝・洗脳技術が高度化し過ぎたために、あまりに極端に所得倍増だとか一億総中流というスローガンが無批判に浸透したことにある。善悪ではない。まだ、この時代は完全に終わってはいない。時代を評価することは後世の歴史家に委ねるしかない。

いま、豊かさや成長という言葉からは夢も希望も奪われている。夢や希望はもっと別のところにある。時代は、そういう空気へと大きく変化している。歴史には、文明の文法が大きく変わる時期がある。言葉の持つ意味作用が反転することがある。それは概ね時代の針が振れる時だ。行動原理と進路が変わる時だ。「家族や友達とグダグダする時間」がネガティブからポジティブへと変わりつつあるというのは、その一例に過ぎない。

 

■新しい喫茶店、新しい居酒屋

昔の若者はカフェや居酒屋というば「場所」で友人と会い会話を楽しんだ。しかし、最近の若者はスマホなどで絶えずコミュニケーションをしている。そうではない若者もいるし、該当する中高年もいるが、コミュニケーションの様式が変化したことは間違いない。

また、若者の一部はニコ生とSkypeを組み合わせて利用することで、少人数で画像を見ながら会話できる場所を作って、毎日、あるいは毎晩、ネットで知り合った友人とグダグダした会話をして寛ぐことを日々の楽しみにしている。遠く離れた人たちが皆、パソコンを前にしてコーヒーを、あるいはお酒を飲みながら、モグモグと何かを食べながら数時間を過ごす。いまでは、自分の部屋を喫茶店や居酒屋にすることができる。私も一時期、そういう若者のグループに参加していたが、これを始めた時には、SF的未来に来たような驚きがあった。十数年前には何千万円もした会社のテレビ会議システムなどタダ同然の前世紀の遺物になったのだ。技術革新は生活を変える。そして文明の文法を変える。やがてそれは政治の形態、経済システムをも変えることになるだろう。いや、既に変わりつつあるのかもしれない。ただ、どのように変化して行くのかを明確に示せる人はいない。もっとも、それを商売とし、確信があるかのように語る学者や実業家などは山のようにいるが。

 

■家族システムの変化と人間の本性

国際的に人気のある学者、エマニェル・トッドは人口動態と家族形態から未来を予測し、経済面では保護主義を主張している。彼の議論を全面的に支持することはできないが、世界にはいくつかの家族の類型があり、それによって政治や経済の様式も規定されるというのは概ね妥当な見解だろう。もっとも、日本の場合は急速に家族の絆が薄れて従来の類型とはかけ離れたものになっている。

離婚は珍しくないし、子供を持たない夫婦、結婚しない人は増え続けている。さらに一人暮らしや、孤独という問題がある。最近では、それらを積極的に肯定するような本もあるが、人類学的に言えば、人間は交流を好むし、一人暮らしというような歴史を持ってはいない。これは種の本能であり、DNAレベルの問題なのだ。こうした根っこの次元を無視した理論が現実になるならば、その社会は間違いなく破綻する。最大の破綻は大量虐殺であり、紛争であり、人権のない非人道的な社会などだ。

アタリは歴史は一貫して自由を拡大する方向に動いているというが、それは全体としての話であり、部分においては逆走したり、悪化している事例はいくらでもある。そもそも「自由」という言葉もまた文明の文法における主要な語彙であり、十分な検討が必要な概念だ。

詳細な議論は控えるが、言語はすべてを語れる万能の道具ではない。人間は言語レベル、意識レベルの新しい脳と、意識下を司る古い脳で生きている。言語化することのできない古い脳を無視した言語領域だけでの理論はとても危険だ。もっとも、これは社会についてだけでなく、個人についても同様だ。言語的理論だけで行動すると失敗や破綻を招きやすい。感情や、生理的な喜びという脳の土台を無視してはいけない。

第4の権力と言われたマスメディアは衰退しつつあるが、ウェブもまた第5の権力となる可能性がある。権力=悪などという無知なことは言わない。そうではなく、私たちは権力を監視し、正しく評価し、騙されることのないように、意識だけでなく知識やスキルを持つべきだという話だ。

現在の権力の源泉は巨大資本だが、その意図や戦略に踊らされることなく、しっかりと考えたい。家族のあり方についてのモデルを押しつけられながら、自由な時代で良かったと喜んでいるようなオメデタイ人にはなりたくない。もっとも、オメデタイ人の方が幸福になれる、という主張には一理あるとも思うが。(笑)

 

■道徳的進化への関心

最新の動物行動学の成果の一つに、道徳性は人間だけが持つものではなく、動物にもあることが明らかにされたことがある。ここでいう道徳性とは、共感と慰め、向社会性、互恵と公平さなどである。

また、人間が道徳的に進化しているかどうかという議論もある。視点はいくつもあるし、どの視点が重要かということになると、これはもう主観とか信条の問題になりそうだが、残忍さに対する嫌悪が増したことと、内面(感情・心理)を深く考えるようになったことは確かだ。

道徳の本質は制度でも規範でもない。次世代文明では、道徳性についての正しい理解とともに、それが文明の文法の主要な位置を占めることが必要だと思われる。

大げさに言えば、種としての生物学的進化と、文明社会の進化とがシンクロナイズされるということだ。これは人類の大きな夢であり、希望だと言えるだろう。

 

■最後に

今日のエントリーは書いているうちに構成がガラリと変わってしまった。

はじめは、「階層とクラスタ化」という節で世代間の断層について書こうと考えていた。さらに「生活の復権」という節では、家事や生活という自立の喜びと楽しみが失われ、合理化という名のもとに生活よりも賃労働に駆り立てられるという倒錯を指摘する予定だった。これらについては、またの機会に書くこととしたい。

「家族や友人とグダグダする時間」をどう考えるのかは人それぞれだろう。本当に孤独が好きな人もいるし、嗜好の問題なので、こう考えた方が良いなどと他人に言うなど大きなお世話だと思う。ただ、そんな考えをする人もいるのか、という話であってもいい。大事なのは、みんなが一つになることではなく、差異を知り、差異を認めることだ。

「こんな時代に・・・」などというボヤキは「今の若者は・・・」というボヤキとともに数千年の歴史を持つ戯言であって、何の解決策ももたらさない。現代を批判して溜飲を下げるといった思考停止に陥ってはいけない。反体制と言われるメディアもまた、戦略的にこの思考停止へと誘導しているように見受けられる。

「それって思考停止ですよね」

一度どこかで、このフレーズを使ってみてはどうだろうか。そんな提案をして今日のブログはここまでとします。