白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

知性は重要か? -人間、昆虫、ロボット

■生物化するコンピュータ

つい先日、書店で興味深い本を見つけて思わず買ってしまった。それがこの本だ。

 

生物化するコンピュータ

生物化するコンピュータ

 

 まだ読み始めたばかりなのだが、ロドニー・ブルックスの根源的な発想の転換に強く刺激されたので、これについての若干の考察をメモしておくことは、今後の思索のヒントとして重要だと感じた。

 

■コンピュータ化の前提を覆した男

コンピュータ化とは、人間にかわって情報を処理することであり、人間以上の知性と能力を発展させることだと多くの人は思っている。しかし、ロドニー・ブルックスはこの基本的な観念に疑問を持った。「世の中で生き延びる能力は、知性である以前に基本的なスキルである」と考えたのだ。この発想は、人間と動物あるいは昆虫との比較から生まれた。動物や昆虫は、人間のような言語や知性がなくても生き延びている。つまり、生命の根本は高度で複雑な知性ではなく、単純なスキルだという仮定からロボットを開発して成功を収めたのだ。

例えば、デコボコの道を転ばずに歩いて移動するロボットを、センサー、下層処理、統合、動作装置を極力単純化する方向で作成した。

ブルックスは、従来のAI(人工知能)の階層構造を否定し、すべてをシンボル化(記号化、言語化)して処理するという考え方を破棄した。そして、独立したスキルの組み合わせこそが重要であるというコンセプトを出発点にした。

「シンボル化された高度な知性」よりも「生物としての基本的なスキル」の方が重要だと考え、それを実際にロボットという形で実証した。この成果は宇宙に行くロボットなど、多くの方面ですでに実用化されている。

 

■生命の歴史

地球上に生命が誕生したのは35億年前、脊椎動物と昆虫の誕生は4億5万年前、類人猿が1800万年前で、農耕が1万9千年前というのが定説のようだ。そして、専門知識の登場は、ほんの数百年の歴史しか持っていない。人類は突如として知識と情報を急速に増やし、それをさらに加速させる方向で活動している。

それは何故かなどという哲学的な問いを考えることには、あまり意味がない。すべては、環境変化と偶然による進化(進化は進歩とは異なる)であって、文明は間違った方向に進んでしまったと嘆いたり、科学や知識にブレーキをかけるべきだと主張したりすることは、ほとんど意味がない。

すでに文明も人類も変化したのだ。この新しい環境を前提として、また今後のさらなる進歩を前提として、そのインパクトのメリットとデメリットあるいはリスクを多角的に見て行くことが重要であることは言うまでもない。

もっとも、ここ数百年の知識と情報の飛躍的な発展の原因は神秘的だ。実は宇宙人がやってきてなどという人もいるが、それも完全には否定できない。まあ、こういう話を書くとオカルトだと誤解され、読者が減るだろうから書かないでおく。(笑)

 

■知性第一主義の弊害

現代社会を生きるうえで知性は重要だ。日常生活はもちろん、仕事においても、知識は大いに役立つ。しかし、一人の人間を生命体として捉えた場合、知性は健康の尺度とはならない。人間はどこまで行っても生物であって、知性に特化した機械ではない。身体運動はもちろん、本能や感情、感覚といったものから生まれる「生理的な喜び」(脳科学者はそれを脳内物質として単純にとらえがちだが)というものは、生物の土台なのであって、この基底の構造と、進化した前頭葉とがバランスよく連動していなければ健康とは言えない。この基底の部分を軽視して、知性を暴走させた時、それは歪んだ人間性や精神的な病に陥ることになる。

脳科学は先端の科学ではあるが、歴史も浅ければ未だ幼年期の科学である。茂木健一郎氏が指摘する通り、現状では研究方法そのものが行き詰まった状態にある。巷には俗流の脳科学に基づいた人生論や自己啓発本が多数流通しているが、少なくとも私は無視している。それらの多くは「脳科学」という言葉を使ったビジネスに過ぎないだけでなく、新しい文明の文法によるマインド・コントロールが含まれていることは間違いないからだ。

 

■次世代文明の人間観

高度に発達した科学技術や科学的知識への欲望は止まらない。そういう欲望こそが人間の本能なのだという説もある。社会がどのように変化し、経済システムや、生活スタイルがどのようなものになるかはSFの世界だとも言える。

ただ、もっとも重要なことは人間は生物であり続けるということだ。そして、生物として最も重要なことは「生きていることの喜び」という感覚を常に持っているということだ。

近年の動物行動学は、動物もまた、共感と慰め、向社会性、互恵と公平さといった道徳的感情を持っていることを証明している。生物が生きていることの根底には「生きていることの喜び」という感覚が大きく横たわっている。それは経済的な豊かさとは別の次元なのかもしれない。世界には、貧しくても笑顔の絶えない人がたくさんいる。先進国の豊かな人々が貧困国の人に対して「貧しくて可哀相だ」という感情を抱くことに、思い上がりや大きな勘違いが無いとは言えない。

最近は人間を比較、評価、格付けすることが一般化している。しかし、根源的には生物としての人間が重要なのだと思う。歴史的人物、大きな業績、あるいは経済活動における機能としての優劣よりも、生物としての人間としての健全性を重視する必要があるのではないか。

もはや、偉大なイデオロギー的著作で文明が変わるような時代ではないのだろう。文明の文法を少しずつ更新することで、いずれキャズムを超える。それが次世代文明研究所の戦略だ。ゆっくりと、この本の続きを読むことにしたい。