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黒崎玄太郎研究所

認識の欠落と非対称性-次世代と旧世代

次世代文明研究所

■文明の文法、時代の文法

文明の文法は強固で揺るぎのない性質を持つ。一方、時代の文法は流動的であり、一時的なものだ。民主主義、自由、人権、進歩などの語彙は文明の文法に属しているし、ゆるキャラやAKBは時代の文法に属している。

いままさに、文明の文法が大きく変わろうとしている。問題は、それがどのような形で新しい文明へ移行するのか、そして新しい文明の文法とは何なのかだ。

学者の中には、それは21世紀のデカルトホッブズを待つしかない、という人もいる。しかし、進化経済学の立場から言えば、そのような強力なイデオロギーなどではなく、大きな技術進化が制度や組織さらには行動を変化させるというのは常識だ。そして、90年代に誕生したインターネット、さらにSNSやスマートフォンは劇的に人々の生活を変えた。それは既に経済システムを変えてしまったし、今後さらに大きな変化をもたらすことになる。そして、まったく新しい経済システム、さらには国家を基本とした政治システムを変えるだろうし、文明の文法も大幅に更新されることが予想される。

 

■旧世代は次世代を認識できない

ソーシャルネイティブ、デジタルネイティブと呼ばれる人々あるいは世代がある。彼らとリアルで話をしたり、彼らの書くブログなどを読んでいると、思考方法と様式、情報処理に対する感覚、さらには世界を見る目が根本的に異なるのだということを痛感する。

確かに50を過ぎてもスマホやiPadを利用している人はいくらでもいる。しかし、それらの利用法がソーシャルネイティブと旧世代では根本的に異なっているのだ。

旧世代は、それらをコミュニケーションや情報取集のツールとして、あるいはゲーム機として認識している。しかし、ソーシャルネィティブの場合、それは自分の脳の一部であるとともに、図書館であり、ノートであり、ツールとなっている。操作する速度も扱っている情報量も圧倒的に違う。そして何よりも思考回路そのものが違う。これはもはや旧世代(私を含む)が努力して追いつけるような世界ではないなのだろう。

つまり、次世代の人が旧世代と次世代を認識することはできても、旧世代の人は次世代を認識することができない。次世代と旧世代の宿命的な溝があるということだ。

 

■世代とクラスタ

もっとも、世代という属性だけで議論するのは無謀だ。同じ世代でも、いろいろなクラスタがある。20代の誰もがスマホを高度に活用しているわけではない。むしろ、そういう人は10%以下だろう。しかし、変化はここから起こる。

若いイノベーターが何をしているのか、何を考えているのか、何を感じているのか。

偏りのない母集団によるアンケートを定期的に実施した場合に得られるのは、現在と過去についと、ある程度の量的な予測だ。大きな質的な変化を予測するには、イノベータ層の多様な動向に注目する必要がある。なお、ここでいうイノベーションとは科学技術だけでなく文化的なものを含んでいる。

有名か無名かではなく、独自の感性で面白いブログを書いている人がいたならば、その人はイノベーターかもしれない。そして、どの世代にもいろいろなクラスタがあり、それぞれにイノベーターがいる。ただ、旧世代の自称インテリの多くは特定のカリスマの劣化コピーだ。彼らはイノベーターではない。反体制の旗を掲げていようが、それはただ自己を美化し、正当化しているだけかもしれない。私はそういう人には興味がない。

 

■次世代文明の文法

混沌とした国際情勢、国内情勢、そして成熟期を過ぎた世界経済システム。政治と経済の混迷の中で、「まるで未来が見えない」と言って多くの人が思考停止に陥っている。(それは自然なことでもあるが)

しかし、いま既に新しい文法は芽を出しているのではないだろうか。問題は、その芽を探し出し、育てることではないのか。

高度な情報テクノロジーを使ったweb上の膨大な言説をテキストマイニングで分析している研究機関は世界中に存在する。お金と時間と知識があれば、それは誰にでもできる。(お金、時間、知識、の三拍子が揃った人だって?・・・笑)

「新しい文法の芽」の候補は、論理的に一貫したものでも、体系的なものでもない。それは雑多であり矛盾を含んでいるのだろう。しかし、それがやがて秩序を形成するようになる。一つになるとは限らない。いくつかのクラスタが形成されるということだ。

 

■見えない革命

現代文明から次世代文明への移行は、従来の暴力や闘争を伴う革命とは異なった様相になるだろうし、また、そうあって欲しいと願う。

ただ、確実に言えることはそれぞれの地域には、それぞれの風土や文化があるということだ。唯一の正しい政治システムや経済システムが存在するという主張はナンセンスだ。私は人権や民主主義、さらに資本主義を否定する立場にはない。ただ、経済学的正当性(帝国の論理)よりも、文化的多元主義が優先されるべきだという思いは強い。

孫子の兵法に従うならば、戦う以上は勝てる土俵で戦うということだ。そして、理想的なのは戦わずして勝つことだ。私は世界の権力がどういう構造になっているのかなど知らない。もっとも、フーコー的な権力論(支配するもの/支配されるもの)という理解からは抜け出さないといけない。例えば、ドゥルーズのようなやり方で。

私たちは権力によって支配されているのではない。そうではなく、文明の文法によって支配されている。あるいは時代の文法によって支配されている。文法は、洗脳かもしれないし、感染かもしれない。より良い世界を生きるには、新しい文法が必要となる。それは極めて個人的な問題であるが故に、社会的にも大きな問題なのである。

みんなが無理をして仲良くするような村の時代ではない。いまは気の合う者同士がうまく集まって生きる時代なのだと思う。生活様式が変わることで、政治システムも経済システムも変化せざるを得なくなるだろう。一人一人の生活様式こそが、革命のトリガーであり、そこにある新しい文法こそが文明の本質なのである。

旧世代の一人の愚者として、この革命を静かに観察したい。