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アイデンティティという虚構

■自己もアイデンティティ虚構である。

ある脳科学者は「自分という主体意識は脳が作り出す仮想でしかない」と言う。いまの科学ではそれしか言えない。反論するためには、霊なり魂の存在を証明する必要がある。自己は仮想に過ぎない。科学的にはその通りだ。

最近ますます盛んになっている心理学ブームからはトンデモナイ理論や考え方が次々と登場している。思い通りに生きる方法などあり得ないのだし、たとえそれが実現しても面白くないように思うのだが、そういう本を好んで読む人がいるということにも唖然とさせられる。近年は特には唖然とさせらることが増えてきた。きっとこれは私に限った話ではないだろう。(笑)

昔よく使われたアイデンティティ(自分は何者であり、何をなすべきかという自己の定義。自己同一性。本稿では帰属アイデンティティは除外する。)というのも、自己と同様に虚構であり仮想だ。そこには本質もなければ実体もない。この事実を正しく理解しておかないと、とんでもない罠に落ちる。

 

■臨床心理学の落とし穴

臨床心理学は科学ではない。心理学者は思い思いの仮説を作って行くが、その仮説が正しいか否かが問われることはない。それでも学問だとされるのは、科学的な証明はできないが臨床では成果を上げていると思われているからだ。

もっとも、これらの考え方や技法は適度に用いるべきであって、深く追求すると泥沼になる。「本当の自分」だとか「自分らしさ」などということは、どんなに考えても答えの出るような問題ではない。単なる時間の無駄ならまだしも、かえって悩みを増やすことになる。

臨床心理学の知見や技法を使うことに問題はないが、期待し過ぎたり、深く追求したりしてはいけない。ヒントやきっかけ、あるいは気休めにはなるかもしれないが、それですべての問題が解決できるような性質のものではない。使用法を間違えれば、薬も毒になる。そういうものだ。

 

アイデンティティという虚構

人間とは言葉という過剰を背負った動物である。丸山圭三郎の言葉を使えば、本能レベルの「身分け構造」と、言語レベルの「言分け構造」によって引き裂かれた世界を生きている。生きる意味や、自分の価値を考えずにはいられない。なんとも面倒くさい動物なのだ。

性格や個性ならともかく「アイデンティティ」という言葉はえらそうだ。そして、この概念が登場してから、多くの人が「アイデンティティ」は重要なのだと考えるようになった。しかし、アイデンティティもまた虚構であり、流動的なものなのだから、確固たるアイデンティティを確立するなどという方向性は一長一短だ。

生涯を通じて首尾一貫したアイデンティティを貫く人などいないし、それが正しい生き方でも、素晴らしい生き方でもない。むしろ、状況に応じて虚構としてのアイデンティティを柔軟に変えて行くことの方が重要だろう。

心というのは映像のようなものだ。多くの要素が像を描いているだけで、本質もなければ実体もない。本質があるかのように振る舞うために、アイデンティティという虚構を作る、という解釈すら成り立つだろう。人間には本質とか実体というものを求める性質があるのだから。

 

■現実と虚構

私たちは現実を生きていると感じている。しかし、現実とは何かを突き詰めると、私たちは現実から得られる虚構を見ているだけであり、決して現実の世界を見ることのできない動物だということになる。

そんな馬鹿な話はないだろう。そうではなく、虚構もまた現実の一形態なのだ。私たちは、虚構あるいは仮想を共有することで社会を形成して生きている。

言い換えると、共有できる虚構が存在するから世界は成立しているのであり、自分自身というものを意識することができる。もっとも、そこには共有できない多くの差異がある。危険なのは一つの現実こそが真実であるという馬鹿げた信念だ。

20世紀哲学の最大の功績は、絶対的な真理など存在しないということを証明したことにある。これからの時代を生きるためには、アイデンティティという虚構を画期的に変化させる必要があるのだろう。それには、世界についての新しい文脈が必要となる。いま、新しい世界観が切実に求められている。