白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

情報は知識ではない

■情報と知識の関係

誰もがインターネットで大量の情報を扱える時代になった。しかし、これが人々の知識の向上に直接結びつくことはない。いかに大量の情報を収集しても、情報と知識は異なるからだ。

情報とは単なる事実(あるいは記述)である。これを知識に変換するには、文脈(コンテクスト)が不可欠であり、さらに文脈に基づく解釈が必要となるのだ。

文脈は文化によって、あるいは個人によって大きく異なる。稚拙な文脈もあれば重層的な文脈もある。政治的、文化的な文脈もある。知識の価値は、文脈の豊かさに依存すると言っても過言ではない。

義務教育で大きな個人差が出る要因に、家庭環境で育まれた文脈力の差がある。同じ情報を受け取っても、それを知識化できるかできないかは文脈力にかかっているからだ。重要なのは、情報、文脈、解釈、知識という思考のサイクルを動かして、それらを統合的に育てて行くことだ。情報が多いというだけでは、何も生まれない。

 

■文脈と文法の劣化

私は「文明の文法を更新せよ」ということを標榜している。文明の文法というのも文脈の一種なのだが、それは国際社会によって支持されている強力な文脈だ。人権は重要であり、命は大切であり、自由は素晴らしいもの。もちろん、こういう文法に反対する人々もいるが、そういう人々は文明の、そして人類の敵として扱われる。

もちろん、私は人権や自由に反対しない。いや、反旗を翻したのでは文明の文法を更新することはできないだろう。そうではなく、新しい文脈を加えることで、大きな文法に化学変化を起こるのではないのか。

太平洋戦争一つをとっても、右派と左派では文脈も解釈も正反対になる。もっとも情報そのものが違うということもあるが、それほどに知識は文脈に依存するものなのだ。

文明の文法を扱うということには十分な慎重さが必要とされる。しかし、残念なことに日本の政治家や文化人の一部には、慎重さを欠いた人が多い。これは、一つには建前を徹底的に重視する欧米の文化=国際社会の常識に対する無知であり、もう一つは国内の大衆受けを狙ったポピュリズムによるものだと思う。

情報は増大したものの、各人の文脈はやせ細り、文明の文法にすら無知な人が増えているのではないのか。これでは、文明の文法を更新するどころか、文明そのものが劣化し、衰退してしまう。

猿でもわかるように単純化された議論がテレビで放送され、炎上や煽り、叩きなどを喜ぶネット民のためのブログが人気となっているというのは情報化の負の側面だ。高度に発達した情報化の中で、情報を知識化する文脈が豊かになったとはまるで思えないのだ。

 

■解釈する力

情報は文脈を通して知識になると書いた。しかし豊かな文脈を持っているというだけでは不十分だ。文脈という装置を機能させるには、解釈する力という酵素が必要となる。酵素とは、洞察力、想像力、構想力、分析力、などを指す。

このような知識、あるいは能力が何の役に立つのか、などという問う人もいるだろう。それは仕事をするうえで役に立つのか、あるいはお金になるのか、と。

教養とはそういう性質のものではない。知ること、考えること、理解すること自体が喜びなのだ、という人もいる。新しい知見、新しい言説の価値を理解できることは大きな喜びだろう。

しかし、私たちはこの段階に留まっていてはいけない。受け身になるのではなく、積極的に新しい知見、新しい言説を作り出すことだ。そうでなければ、教養などただの趣味か道楽に過ぎない。

これは野心ではなく良心に属する。もっとも、この良心という言葉も文脈に依存している。それは「生きるとは何か?」という問いに繋がっている。この文章をどう解釈するのか。それはすべて読み手に委ねられている。