科学という神話

■科学とイメージ

現代人の多くは科学は重要であると信じているし、さらなる発展を望んでいるように見える。なお、ここでいう科学とは自然科学のことであり、社会科学、人文科学は含まない。そういえば昭和の時代には「思想の科学」という雑誌があったが、科学ではないから思想なのだ。まったくもって不可解なタイトルだなとつくづく思う。科学には絶対的な正しさが要求されるので、科学とか、科学的という言葉を使えば信頼が得られると考えたのだろう。

現代文明の文法の骨子にある進歩や成長という語彙は科学と相性が良い。新しい知見、新しい技術は常に称賛される。例外は残忍な化学兵器くらいだろうか。原子力については賛否両論あるし、生命科学については倫理問題が議論されているが、現実的に科学者なり政府なりが規制しているのは生命科学の一部でしかない。

 

■科学の抱える三つの問題

科学は国力であり、企業にとっては競争力なので巨額の資金が投じられて激しい競争が行われるのは自然の成り行きだ。しかし、以下の三つの問題について言及されることはあまりない。

1.科学研究費の肥大化

科学研究は、その経済効果が検証されないまま肥大化を続ける金食い虫である。この問題を公共事業に似ていると指摘する学者もいる。最近ではSTAP細胞の問題などで、科学研究の世界の利権構造も世間の知るところとなったが、科学を聖域にして良いのだろうか。宇宙開発は人類の夢なのだろうか。少なくとも私は火星に住みたいとは思わない。

2.科学の発展は人間の幸福を意味しない

こんなことを言うと科学者は激怒するかもしれないが、科学の発展には光と影がある。医療の発展で救われる命もあれば、飛行機が墜落することもある。現代社会に慣れてしまうと、自動車やパソコンのない生活など耐えられないだろうが、一日中スマホを触わっていないといけない生活というのも面倒だ。だいたい、これほど技術が発達しているのに、なぜ多くの人が週に5日、朝から晩まで働かないと生きて行けないのかを考えて欲しい。科学の発展と人間の幸福は別次元の問題なのだ。あまりにも多くの人がこれを同一視しているのではないのか。

3.科学の発展は止まらない

国家であれ企業であれ、科学は戦場である。戦争という言葉が不適切ならば、終わりなき競争、終わりなきゲームと言い直しても良い。そして、このゲームは誰にも止められない。それはフクシマの例を見ればわかる。科学は常に欲望し、暴走する。多くの人が科学の持つ本当の怖さを知らない。

 

■科学の悪魔的性格

昔、ある脳科学者が私に言った。「いずれ誰もが幸福を感じて生きられる薬が開発されるでしょう。それが私たちの夢です」私は寒気がした。幸福などという漠然とした言葉は、まったく科学的ではない。そこでは検証されない仮説があたかも科学の装いをして君臨しているのだ。怖い話である。

これは特殊な例かもしれないが、掃除をするロボットは必要だろうか。自家用の飛行機が必要だろうか。科学と資本は手を取り合って市場を拡大し利潤を追求する。大衆の生活や幸福など関係ない。マーケティングという技法で情動系を支配するというのも現代の科学の成果だという。

科学は資本と共謀して、大衆の労働、生活、消費を支配している。これが現代文明における科学の姿だ。にもかかわらず、大衆は科学を信頼し、科学者を尊敬する。

なにも科学を否定しているのではない。科学のもたらす光と影、そして権力との関係を理解するならば、科学を絶対視することなどできるはずがないのだ。科学には悪魔的な性格があることを忘れてはならない。

 

■言語の科学的な扱い方

最近は統計学がちょっとしたブームだ。多変量解析、データマイニングテキストマイニング。いろいろな手法が開発され、いくつものソフトが有償、無償で存在する。私も興味を持って勉強してみたのだが、導かれる結果のいい加減さと、浅薄さに吐き気がした。正しい使い方をすれば、それなりに説得力のある知見を得られるとは思う。しかし、問題はその使われ方だ。

言語データを解析することは可能だ。しかし、その解析結果は元のテクストにあったであろう豊かさ、揺らぎ、微妙さといった本質を切り捨てる。

膨大なアンケート結果から鍵となる言葉を抽出して座標上にプロットすることができる。これなどは便利と言えば便利だ。しかし、文学や哲学のテキストを機械的に解析したところで何が得られるだろうか。

さらに統計学金融工学にも応用されている。それによって巨万の富を得た人も多い。そこではビッグデータを解析して「法則を発見する」というのだが、それを「法則」と呼ぶことは完全に間違っている。それは単にある期間におけるパターンであって有効期限付きの法則だ。そんなものは法則ではないだろう。

科学と似非科学の間には微妙な中間領域がある。金融工学について論じることはしないが、少なくとも「思想信条」を科学的に扱うことなど不可能なのだ。そもそも、それは科学が対象とする領域ではないし、扱うべき領域でもない。

 

■科学という神話の終焉

次世代文明は科学のさらなる発展によって生まれるのかもしれない。しかし、その時には科学という神話はその効力を失っているだろう。文明の革新には、外的要因と内的要因の運命的な連結が必要となる。科学は必要ではあるが聖域ではない。科学に言語を支配させてはいけない。ましてや似非科学を信じてはいけない。しかし、人々が問題に気がつくのは破局が明らかになってからだろうが。