「健全な従属」と「野心」

■民主主義の特性

A.トクヴィルの大著「アメリカのデモクラシー」が出版されたのが1835年。これは近代民主主義思想を書いた必読の古典である。アメリカを旅したトクヴィルの鋭い観察と洞察は、その後の民主主義社会を的確に予見したものであり、数多くの知見は現代にも通用する。私も昔、この本を読んで大いに興奮したものだ。

今日はこの本の中にある三つの見解について少し書いてみたい。

1.幸福に生きるには時代への健全な従属が前提となる。

2.民主政治の危機は人民から野心が奪われることから生まれる。

3.民主主義では、階層は存在しても階級は存在しなくなる。

 

■幸福に生きるには時代への健全な従属が前提となる

反逆は常に失敗し悲惨な結果に終わるだろうとトクヴィルは言う。それが民主主義という政体の強靭さだ。リベラルの本質は寛容さだ。多少の嫌悪は自制して、あくまでも時代精神を尊重しながら、健全さの範囲内でこれに従属することをトクヴィルは勧める。もっとも「健全さの範囲」というのは実に微妙なところではあるし、「従属」の形もいろいろだ。例えば、一定のルールの中で反対意見を言うのは従属の範囲内だろう。

ここでいう幸福とは、安全で自由で快適な暮らしだ。この定義なら、大多数の人は幸福を望むに違いない。反抗や異端を好む人も常に少数は存在するが、トクヴィルは彼らが幸福になれることはないと断言する。もっとも、それこそが彼らには幸福なのかもしれないが。

 

■民主政治の危機は人民から野心が奪われることである

トクヴィルが危惧したのは、民主政治で実現する安定によって、社会が緊張感を失うことであった。この予測が当たったとは思えない。しかし、トクヴィルはそのような状況に陥った場合には、為政者は社会を敢えて不安定にするべきだという過激な提言もしている。社会に活力を生むのは野心であり、野心を持つ人がいない状況をトクヴィルは怖れたのだ。

さて、現在の日本で野心を持つ人がどれくらい存在するだろう。現実には、倦怠感と妥協の中で暮らしている人がほとんどだ。いまの社会は発展を望むので野心を奨励するのだが、一般人が経済的に大きな成功を収める場合には権力への根回しが必要となる。それができなかったのが、そのことを知らなかったのがホリエモンではなかったのか。逆に、それをうまくやったのが楽天の三木谷氏だ。

もっとも、野心が経済的な次元でだけ語られるというのは滑稽なことだ。いや、それを滑稽と言ってはいけないのかもしれない。貨幣は貯蔵価値、交換価値のほかに、それ自体が権力であるという側面を持つ。従って、何をするにもまずはお金が前提となる。野心家はまず、このハードルを越えないといけない。そして、このハードルを越えただけでは真の野心家とは言えない。社会を変革することこそが重要なのだから。

 

■民主主義では、階層は存在しても階級は存在しなくなる。

平等という建前の中では、精神的な絆で結ばれた階級というものは消滅して行くだろうとトクヴィルは考えた。いまでは、トクヴィルが示した階級の性質すらも想像し難い。

確かに所得や資産の階層は明白だし、政治家、大学教授、医師、弁護士、経営者といった階級も存在するように見える。しかし、トクヴィルはそういうものを階級と呼んでいるのではない。特定の精神的ベクトルを持った集団こそが階級なの。政治団体や宗教法人は階級ではなく団体だ。

トクヴィルの時代の階級とは社会の中で明白に区分されるべき身分のことだ。内心は別として、いまの社会で、医者や大学教授は尊敬されるかもしれないが、階級が違うので交際はしないということにはならない。少なくともそういうことは明言しないし、明言すると大きな問題になる。昔は階級の間には壁があった。現実にはいまも壁は残されているが、誰にも見えないということにしているのだ。

ただ、重要なことは階級の中に精神的な理念や紐帯が失われるということだ。この点についての予言は当たったのかもしれない。そして、そのようなものが無ければ階級とは言えないと主張したのではなかったか。

 

■なぜ次世代文明を考えるのか

「次世代文明なんて考えても意味がないでしょ。どうせその時には生きていないのだし。なぜそんなものを研究するのですか。それより頑張って稼ぐとか、目一杯遊んだ方が楽しいですよ」

そう言われるかもしれない。しかし、自慢ではないが、私はそういうことに飽きてしまった。そして、いまという時代を知るには、過去の歴史と次世代文明という現代の外側から時代を見ることが必要だと考えたのだ。

そして、社会経済システムを駆動する原動力は言語であり、文明の文法、時代の文法であるという仮説を作った。

過去-現在ー未来、という変遷の中で現在を位置づけること。E.H.カーは「歴史とは現在と過去との間のつきることのない対話」だと言った。であるならば「次世代文明研究とは現在と未来との間のつきることのない対話」である。

未来は決められているものではない。そこには僅かかもしれないが自由意思の働く余地があるのだと思う。それは宇宙に向けて信号を送り続けるような浪漫かもしれないが。