白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

魔性の動物

最近、人間の根源的な欲求というのは「交流」なのだなとつくづく思う。そんなものは面倒臭い、孤独が一番だという人もいるが、そういう人は例外だろう。理解し合うこと、共感すること、会話すること、一緒にいること、何かを共有すること。それこそが、人間的な生活の基盤なのだと思う。そして、普通は他者への思い、言葉を変えれば「愛のようなもの」があるのだろう。もっとも、それは常に、歪で、複雑で、不条理を孕んでいるのだが。

前にも書いたかもしれないが、人間は魔性の動物である。そして、概ね魔性の強い者が戦い、権力を得て、魔性の世界を拡大する。魔性で人々を洗脳し、汚染する。文明の中で生きるとは、ある意味で魔性に従うということだろう。

例えば根拠のない優越感やプライド。幻想や理想を渇望すること。卑近な例を示せば、日本人は優秀で、日本という国が一流だと思いたいという思い。私に言わせれば、それは狂気の一種だ。そして、そういう現実の社会あるいは共同幻想こそが、私たちの環境そのものだ。

もしかしたら、精神疾患とは実に正常な反応であって、そういうものの錯誤を正確に感知、認識しているということかもしれない。

日常を愛せるならば、この世は天国だ。
日常を愛せないならば、この世は地獄だ。

それなのに人は日常に満足しない。それこそが人間の本性、人間の魔性なのだと思う。しかし、それを変えることはできないだろう。それこそが遺伝子の問題なのだろう。

はて、個人に意思などあるのだろうか。そんなものは、ネットワークの中の一つのエージェント、空間の中の一つの分子に過ぎないのではないのか。つまり、私だとか、個人だとかいう代物は、独立した存在などではないということ。言い換えると、私だとか、個人だとかいう観念こそが病理だということ。

押しつけられた「自由意思」。
これほどの倒錯の中で、頑張って生きている普通の人は、正常だろうか?(笑)