白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

お前は本当に胡散臭い奴になればいい

 私には親友がいる。中島君だ。10年前に44歳で亡くなり、今は天国にいる。私は時々彼を召喚しては対談を行う。鋭い意見、斬新な視点が与えられることも少なくない。以下は数日前の対談の一部だ。

中島(以下N)「それより、ためになる話をしよう」
私(以下K)「ためになる話」
N「お前は、笑顔、幸福、成功という言葉が嫌いだったね」
K「ああ、胡散臭い」
N「それは、お前が胡散臭い思考を知っているということさ」
K「ふむ、だから」
N「お前は本当に胡散臭い奴になればいい」
K「おいおい」
N「いや、俺は真剣に言ってるんだ」
K「精神障害者手帳を持ってる会社社長ですか」
N「ああ、下手な作家より、その方が面白い」
K「おい、せっかく小説を書いてるのに」
N「まあ、それは憂さ晴らしとして頑張れ」
K「憂さ晴らしですか」
N「そうだ。他に何がある」
K「社会変革とか」
N「笑わせるな。それは胡散臭くないからだめだ」
K「小説も胡散臭くするか」
N「当たり前だ」
K「ありがとよ。天国も胡散臭いのかい」
N「もちろん」
K「いや、今日はためになった。ありがとう」
N「俺も結構暇なんだよ。またチョコチョコ呼んでくれ」
K「わかった。またな」
N「あいよ」

 胡散臭い。辞書によると、それは「何となく疑わしい。何となく怪しい。」ことだという。具体的に言うと詐欺師のような話だろうか。セミナー・ビジネスやスピリチュアルを知る私は、笑顔、元気、成功と言った語彙そのものを胡散臭く感じる。心理学や脳科学も、もちろん胡散臭い。自己啓発も政治も宗教も胡散臭い。いったい胡散臭さの本質は何なのか。胡散臭い人物の顔を思い出し、共通点を探したところ、それは揺るぎなき自信だということに気がついた。

 

 自信。これもまた難しい言葉だ。ある人は「誰も自信なんて無いのよ」と言う。ある人は「根拠がなくても自信を持て」と言う。果たして、どちらが正しいのか。

 

 それにしても、なぜ中島君は「本当に胡散臭い奴になれ」などと言ったのか。それは俗世間を要領よく生きろという意味なのか。自信を持って笑顔を絶やすなということなのか。それとも、野心を持って金儲けをしろということか。

 

 胡散臭さの特徴は、それが騙しの手口だということだ。そして、本人は騙しではないという自信、いや確信を持っている。私の知人の詐欺師は、常に善意の人を演じている。ぶれがない。凄い。

 

 リアル世界の親分は、私に世俗から離れろと言う。関心を別のところに向けろと言う。例えば自然、例えば歴史。

 

 胡散臭く世俗から距離を置いて生きる。なぜ?

 

 転落した私には、いろいろな人がアドバイスをする。頭に来ることも少なくないし、アドバイスに従ったために大変なことになったこともある。

 

 そう言えばブロガーというのも胡散臭い。騙されているのは多くの読者だ。そう考えると人気の秘訣は「胡散臭さ」のようにも思えてくる。自信のない、揺れるブロガーの記事など誰も読まない。

 

 私にも自信を持って言えることが一つだけあった。

 

「自信、そんなもん、ある訳ないでしょ」

 

 ふむ、愚者もまた胡散臭くなって行くのか。明日が楽しみだ。