議論はディベートではない

 最近というよりも以前からだが、議論する場を持つことの難しさについて考えている。例えば議会。いったい、どんな生産的な議論がなされているだろうか。誹謗、中傷、スキャンダル。それを喜ぶマスコミと大衆。うんざりだ。

 「東大でケンカを学ぶ」という本もあったが、学会もまた、勝ち負けを決めるディベートの場のようだ。そう言えば、むかし行っていた読書会にも、似たところがあった。独自のコンテンツをどれだけ主張できるか。気の強い人が勝つ、不思議な読書会だった。

 そもそも議論というのは、相互理解、見解修正の場でないといけない。そうでないならば、自説に首肯する人だけを集めての集会でしかない。差異を認める姿勢、差異を理解する姿勢こそが、議論には重要なのである。議論はディベートではないのだ。

 もちろん、議論にはレベルというものがある。教養やリテラシーの無い人間の議論など聞くに堪えない。いかん、相手を選んでいる。その姿勢が議論を不毛なものにする。そうか、議論とは忍耐なのか。高慢であってはいけないのか。なるほど。

 そもそも何のために議論するのか。それは自分自身を、自分自身の意見を高めるためだ。いや、向上心などではない、それが楽しいからだ。そして、そこに使命を感じるからなのかもしれない。

 虚しい議論もあれば、豊潤な議論もある。閉じた議論もあれば、開かれた議論もある。議論もいろいろ。しかし、同質集団内での議論というのは、バイアスがかかりやすい。どういうメンバーで、何を議論するのか。基本的な文脈は共有されているのか。劣化、劣化と言われるが、何が劣化しているのか。

 さて、劣化について議論しますか?