白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

幻影というエネルギー

私は精神障害者である。最近も調子が良くない。年表を作っていて、書き加えるのは没年だけかなと思い悲しくなった。薬で知能が低下し、日常生活能力と金銭管理能力を失った。ヘルパーさんという福祉があるから、なんとか一人暮らしができているが、それでもギリギリだ。

 

そんな状態でありながら、まだ人生を諦め切れていないというのは驚異である。諦めれば楽になるのに。そういう意見もある。しかし、私は日常生活に関心がないのだ。私は庶民ではないのだ。

 

世界を驚かす言説を発表するという妄想。これが私の背骨であり、精神障害の原因だろう。そんなことは無理なのだ。もう、私は無力なのだ。そう知りながらも、私はこの幻影を抱えることで、生きるエネルギーを作っているように思える。この幻影がなければ、完全に廃人になっているだろうなと思う。

 

そう考えると、精神科はどう治療するべきかという問題が出てくる。この幻影というか妄想を除去することが本当に望ましいのか、悩ましい問題なのではないだろうか。

 

押しつけられる社会の規範や日常生活。称揚される社会参加。見方を変えると、治療の成功が人間としての死を意味するのではないか。私から幻影が奪われたなら、私は私では無くなるのではないのか。

 

妄想、あるいは狂気。これは革新の必須要素でもある。しかし、革新の99%は失敗する。私もまた。世界は、そして精神科医療は、狂気との向き合い方を考え直す必要があるのではないのか。社会生活を営める子羊に改造することが治療だとは思えないのだ。

 

社会というものが持つ毒。私たちは社会を理想的なものとして美化し過ぎている。異次元の障害者世界に生きながら、私は今も次世代文明を夢想している。私は狂気を抱えているが故に、生きていられるのだった。