白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

葬儀の2割以上は参列者10人以下

葬儀会社の美人営業マンにつかまって、いろいろと説明を受け、アンケートに答えてきた。(注:俺は美人に弱い)

 

俺自身、一昨年離婚した。父と母も離婚していて、父は再婚している。弟がいる。長女がいる。いつ死ぬかわからないが、誰かが葬式を立てることになるらしい。問題は血のつながりで、仲が良いとか悪いとかは関係ないという。そんなものかと思った。

 

それよりも驚いたのが、葬儀の2割以上は参列者10人以下という話だ。孤独と貧困はここまで来ているのか。それなら、24万円でも利益が出そうだ。

 

誰もいない葬儀か。家族が消滅傾向にあるのだな。近所づきあいが減っているのだな。高齢化が進んでいるのだな。

 

去年、友達のリストを作った。いったい何人が葬儀に来てくれることか。悲しくはならない。虚しくなる。

 

月会費2000円。入るべきか否か迷う。流石に葬式の無い人生は寂しいなと思う。俺には仲のいい家族や親族はいない。葬式があっても、来て欲しくないくらいだ。天国では親友のN君が待っている。まあ、天国があるのか無いのかは何とも言えないのだが。

 

そう言えば、ここ何年も葬儀に行っていない。親戚が死んでも連絡すら来ない。ふざけた親族だ。

 

葬儀は文化である。それも、人生最後の。ああ、墓の問題もあるな。先祖代々の墓には入りたくないな。とても窮屈で不快だ。

 

人生最後のイベント。参列者10人。それでも、いるだけマシかもしれない。俺の場合ゼロ人も考えられる。まあ、いつ、どこで、どうやって死ぬかにもよるだろう。コミュニティは大事なのだ。友達は大事なのだ。

 

それとは対照的に、成功者の葬儀やお別れの会は盛大だ。人は金に群がるからか、人望や人徳の問題なのか。やはり、胡散臭く生きることが大切なのか。俺には良くわからない。

 

葬儀の2割以上は参列者10人以下か。そんなもんでしょ。そういう時代になったのか。俺がそういう世界に来てしまったのか。格差社会。誰もが死ぬというのは公平かもしれないが、文化としての死は公平ではない。