社会への感謝と嫌悪

はて、あなたの言う社会とはどういう社会かな? そう言われると、私は日本社会のごく一部しか知らない。国際社会などメディアを通してしか知らないし、裏社会とは繋がりがない。まあ、ひとことで日本社会と言っても、そこから想起される観念は、それこそ人によって違う。社会への感謝と嫌悪と言っても、これは私が感じたところでしかなく、どこまで普遍性があるのかは想像の域を出ない。

 

さて、社会とは何か。それは単なる人間の集合ではなく、そこには秩序性、相互作用性、多様性、自律性などがある。人は社会の一員として生まれるのであり、未成年であろうが、ニートであろうが社会の一員だ。働いている人を社会人と呼ぶ風習は馬鹿げている。

 

今日はこれからグダグダに書く。ビールで酔いが回っているのもあるが、実は精神科の薬で知能が劣化してしまい、構造的に練り込んだ文章を書けなくなったのだ。いや脈略の無い文章を書くのが得意だと言おうか。もう、ジェイ・ロバート時代のようには書けない。

 

社会への感謝か。これは定年で会社を辞めてから感じるようになった。特に障害者として福祉の恩恵を受けるようになってからは、感謝の連続だ。働いている時には、まるで知らなかった世界が、そこにはあった。

 

社会への嫌悪。これは学生時代からあった。利権と欺瞞。ある人は立身出世主義と体制順応主義が日本をダメにしていると語っている。私は反抗的だった。ただ、反抗的だったのは心の中だけで、面従腹背を続けていたのかもしれない。それだから、有名企業の正社員でいられたのだろう。しかし、我慢ができなくなり精神病を発病した。発病後も勤務を続けたが50歳で退職した。限界だった。

 

社会への感謝。何の変哲もない日常も、社会が機能していなければ成立しない。店舗では商品が売られ、電車は動き、電気は供給され、お金が使える。膨大にして複雑な体系、それが社会だ。私たちは何をしていようが、していまいが、社会の一員なのであって、社会参加とか、社会復帰というのも、おかしな言葉使いだと言えよう。

 

社会には規範という側面がある。モラルがある。西洋における社会概念が日本には存在しないことを指摘したのは一橋大学の元学長、阿部謹也氏だった。日本には世間はあっても社会は無い、と言い放った。そして、日本人は社会など意識せず世間の中で上手く生きろと説いた。許せない。日本には公共とか公という概念が未発達だと言いたかったようだが、そういうことだから、こういうことになっているのだ。ふむ。何を書いているのかって? 今の言論の自由も報道も消えた日本の惨状のことだよ。

 

社会は多面体だ。好きな面も嫌いな面もある。どうしようもない事もある。おい、俺は何が書きたかったんだ? 思い出した。読者各位が、社会の何に感謝し、何に嫌悪を感じているかを知りたかったのだ。

 

私はテレビが嫌いだ。政治家は嫌いだが官僚は好きだ。日本が官僚国家で良かったと真面目に思っている。市民には敬意を払うが大衆を嫌悪している。なお、大衆とはマスメディアを盲信する人のことを言う。

 

市民として生きよう。それが今日のメッセージだ。立場は関係ない。発言しよう。