白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

無想~無の境地を体験して

禅の方法。それは瞑想ではなく、無になることだ。禅に取り組むうちに、私は遂に無想の境地に達した。何も考えない。何も思わない。眠るでもなく、ただ時間が過ぎて行く。1時間、2時間、3時間。ふと我に返る。そして、感じるのは達成感でも心地よさでもなく恐怖だ。このまま無能になるのではないのか。そんなことを思う。

 

それでも毎日、昼は無想の境地に入る。厳しい現実からの逃避なのかなとも思う。心が磨かれるとは思わない。むしろ、世間に無関心になる。無想は、苦しまない方法かもしれないが、どこか危険なように思う。

 

あまり長時間やると変性意識状態になるとも言う。いや、それこそが目的なのだろうか。禅を甘くみてはいけない。無想に到達した時の虚無感は尋常ではないのだ。

 

日常空間の中にありながらも、異世界を漂う私。異世界。それは無だ。

 

坐禅は精神科医の勧めではじめたことだ。次回の診察で、無想の境地の恐怖について話をしないといけない。

 

続けるのか。やめるのか。そして、何のために。

 

世俗から身を引き、煩悩を振り払えと言うのかどうか。危険はあるだろう。ただ、逃げてもいられない事情もある。悩ましい。そしてまた、無想に入る。