次世代文明雑感
私が次世代文明に憑りつかれたのはいつの頃だったか。2013年に「次世代文明研究所」を作ったのだ。その頃はまだ精力があった。しかし、文明の文法を更新せよと掲げたものの、力不足から今年の9月30日で研究所を解散した。
今日は思い出話だ。私はスティグレールの「象徴の貧困」にやられた。個人の特異性を無視したマーケティングのやり口。今では、個人はマーケティング的にどのクラスタにあるかだけがアイデンティティになっているとスティグレールは言う。主張はもちろん象徴の回復だ。独自の存在としての人間の回復だ。
マーケティングの胡散臭さ。夢。成功。健康。元気。幸福。明るさ。願望。勝利。すべてがマーケティング用語になったようで不気味だった。
「夢を持て。夢を叶えよう」
そういうビジネスや言説が市民権を得て跋扈していた。そして、俺は捻くれていた。
マーケティングに背を向け、自然と転落した。
今、私はmixiのあるコミュニティにいる。そこ、ハッとする発言を読んだ。
要約すると「今は過渡期であり、それは過酷で残酷かもしれず、この過渡期は100年続くかもしれない」
その通りだ。はい、明日から次世代文明で、とはならない。社会や生活は、すぐには変わらない。私たちは過渡期を生きなければいけないのだ。
古い価値観と新しい価値観の混在。古い制度と新しい制度の混在。新旧の対立。過渡期とは、言うまでもなく混乱期だ。
必要な労働力が極端に減った時、雇用の創出が追いつかなくなった時、労働以外に、どんな分配のシステムを作るのかが問題になるだろう。労働による分配に固執すると、いろいろな社会問題が出てくるだろう。
瞑想家に転身しようとしているが、次世代文明研究に残心はある。これからも場末でひっそりとディレッタントを気取ってみるか。その程度の自由は日本にはありそうだ。その証拠に、私はまだ生きている。