白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

私は何人いるのか

自己観察法とは、起きている間中、自己観察を続け、思考、感情、動作、本能について都度メモをとるという方法だ。

 

そこには、観察する<吾(われ)>と、観察される<我(われ)>があるのだと教わった。ふむ、私は二人になった。理想的な形としては、吾が確立され、我を支配することなのだろうか。違うかもしれない。

 

そうこうしているうちに、今は我が吾に興味を持ち、逆に観察するという暴挙に出た。部下が上司を値踏みしている感じだ。

 

思うのは、私の吾は超放任主義で、権威主義的なところがまるでないということだ。いやだよ、こんな吾じゃ。上司を変えてくれと我は言いたい。

 

吾は吾で、我に期待していない。超がつくほど慎重に取り扱っているのが現状だ。

 

自己観察の効果が出るには、1年かかるらしい。その間、吾と我という分裂した私の確執が続くのだろうか。

 

吾は真面目人間だ。観察される部下の我が変われば、上司たる吾も変わるのかもしれない。変わる。嫌なキーワードだな。変わらなくても良いじゃないか。いや、変わらないと話にならないでしょ。揉める。迷う。引き延ばす。決断しない。

 

無我・無想の瞑想は、まったく出来なくなった。理由は不明。しかし、これは悲しいことだ。去年の秋は、あれほど<無>になれたのに。

 

自己観察ではキーワードを列挙して行く。大量の単語が並び、大量の重複がある。これをジグソーパズルのピースにして、客観的に自分の全体像を見る。とにかくメモに慣れることだ。飛んでもないキーワードがいくつもある。公開はしない。

 

<吾>と<我>という設定に若干の違和感もある。多重人格ではないが、作ればいくつでも私を作れる。今、吾は傷ついている。我は吾に気を使っている。不思議な私の私の中の私。