私が書いたものを読むメリット
嫌なタイトルである。昨日、詩集「ロバート空間」を読み返して、読者は何を感じ、読者にどのような変化が起こるのかを考えてみた。
反文明、反社会で突き抜けた思想。気分は一瞬、らくになり、陶酔をあじわえるかもしれない。しかし、読後感の中に停滞した場合、待っているのは破滅ではないかと思ってしまった。だいたい、これを書いた私が破滅しているのだ。その可能性は高いのではないのか。
遺憾である。そんな奇書を売ると言うのは遺憾である。救済や楽園を用意するのが詩人としての責任ではないかと思った。
詩集「ロバート劇場」「ロバート空間」に続く3部作完結編を書かないといけない。それはやはり「ロバート文明」だろう。
貧困と障害の当事者研究はやめよう。私の趣味に合わない。それに、私は貧困ではないという定義もある。まだまだ甘いのだ。凍結で良いだろう。
日日雑記も関心領域が狭くなっている。エッセイということでレベルアップさせたい。そこで、「エッセイ(令和)」というカテゴリーを作った。「日日雑記」との使い分けになるだろう。「ロバート文明」(詩集)と言うカテゴリーも必要だ。愚者の祈りは失敗作だ。カクヨムに上げる前に、ここで叩きたい。とはいえこれは先の話だ。まだ、構想が寝れていないのだから。
夢はいろいろある。まずは、ロバート3部作を小さな本にして、商業出版からベストセラーにする。
追いかけるように、「白井京月・エッセイ集」を出版。
小説はネットに置いているだけでも良いし、小冊子にしても良い。いずれにしても、文明の文法を書き換えるというのが核である。
人間観、社会観、労働観、経済観、政治観、科学観、哲学観、医療観。どれもこれも隙だらけだ。
5年にわたる耐乏生活を抜けて、私は再び世界を書こうと思う。
私のエッセイは難解だ。専門的過ぎて一般人には読みにくいとも言われる。これは欠点だが治すつもりはない。いや、治せないだろう。
「ロバート文明」は挑戦である。何年かかるか分からない。今日は私の執筆のベクトルを書いた。
小説「笑顔の監獄」「狂った季節」「宇宙人会議」「銀河の使者コピコ」「ロバート物語」は本にしないのか。「バックギャモンな人々」もあるぞ。うむ、これは余暇だ。詩の方がエッジが効く。
こうして整理すると少し視界が開けた。夢は現実化する。