白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

回復が無いと悟ったとき

今日の診察は、私の病状と、今後を考えるうえで重要なものだったように思う。状態は不安定で、鬱状態と錯乱状態が頻繁に現れる。去年の問診表になぜか連続殺人事件の容疑者という記述があるようだ。妄想。躁状態の極期に現れる意識障害と記憶障害。これは実生活にも影を落とす。記憶は頻繁に欠落する。

2年ほど前の別ブログ「狂月日誌」に、砂さんという方が私に残された時間は少ないかもしれないという指摘をされた。当たっていた。もう回復はない。生産的な文章。創造的な文章は書けなくなった。インヴェガの影響で、好奇心は完全に死んだ。

問題は回復などではなく、今の一人暮らしという生活をいつまで維持できるのかに変わっている。お金が無いのに、食費の計算をしない、できないのだ。自炊もやめてしまった。洗い物すらしない。夕食はコンビニおにぎり1個とか。パンツは1ケ月履きっぱなしとか、もう、生活になっていないのだ。

入院の話は出ている。まだ決意が揺れている。私としては、もう回復はないので、マンションを引き払っての永久入院が希望なのだが、昨今の精神科医療は、3ケ月で地域に戻すらしい。残酷だよ。それに、コストもかかる。訪問介護訪問看護。入院の方がどれほどか安上がりなように思う。

残念だよ。無念だよ。再版したかった本がある。出版したかった本がある。長編小説、笑顔の監獄は絶筆になるのだろう。失敗の本質。誇大妄想。このブログのタイトルも変えたいのだが、それも失敗として記録に残した方が良いのかもしれないと思う。

もう、脳内は病気と薬でグチャグチャだ。一般生活の中でも、その、グチャグチャさを感じる。主治医は明言しないが、回復など考えられないに違いない。治療目標は現状の劣化をどこまで食い止めるかでしかない。

成果物、生産的な活動、そんなものは不可能だ。無念だよ。もう生きる意味を失ったのだからね。それでも生きるのか。残酷だな。

もちろん死にたいさ。しかし、自殺する勇気もない。電気ショック療法の失敗かなにかで死ぬのかもしれない。

このエントリーは反発がキツイだろうな。何しろ昔、自分で「活動に対する存在の優位」なるエッセイを書いているのだからね。存在。私と言う精神障害者は、一般的な意味での存在の危うい状況にあるということだ。

荒れるな。今日はシアナマイドを飲んでいるので、アルコールは厳禁。今から自販機のカルピスソーダを買ってくる。今日は眠れるだろうか。