白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

テオリアの生活

研究所は長い夏休みなのだが、流石にブログを全く更新しないというのも寂しいので、今日は、現在、校正中で、来年出版予定の「知識人のための36章」の間に挟むエッセイとして、「テオリアの生活」を書くことにした。

 

因みに今年は「ロバート劇場(復刻版)」を、10月1日に、「ロバート空間」を、12月1日に、いずれもパレード社から出版する予定にしている。来年は計画的に出版する。7月の課題は事業計画の骨子と、出版計画の骨子を明確にすることだったが、諸事情により、8月にずれ込んでいるのだ。

 

焦る気持ちは全くない。余裕が無ければ良い仕事が出来ないというのは常識だ。じっくりと構えて最高レベルの水準を目指す。ただし頂点は目指さない。より高く、より速くを追求するのは、20世紀特有の狂気だった。新たなる千年紀は、妥当と適当という水準に収めることこそがテーマとなるだろう。

 

イタロ・カルヴィーノは、新たな千年紀のための六つのメモを「文学講義」として講義し、1冊の本にまとめた。私という、日本という極東の小国の、いちディレッタントが巨匠の真似をするなど滑稽だ。私は小さなつづらを選ぶ。

 

さて、本題に入ろう。まずは、テオリアとは何かという説明が必要だ。テオリアは英語のセオリーの語源と言われるラテン語だ。日本語では、観照などと訳される。意味は、すべてを観て真理を照らすだろう。ある種の瞑想状態。それがテオリアだ。

 

自慢ではないが、最近の私の生活は、テオリアに包まれている。令和4年、夏、神戸甲南町。天気は晴れ。午前5時起床。セブンイレブンへ。

 

新聞数紙、コーヒー、タバコ、お菓子などを買い、外の階段で朝食。コーヒー、タバコ、それに新聞があるので、1時間以上座っている。甲南町は、犬と自転車の街。一人づつと挨拶。会話が弾むことがある。自然に歌を歌うことがある。

 

なお、テオリアの生活と、テオリアのある生活は違う。テオリアの生活とは、24時間がテオリアに包まれているのだ。

 

私は、この、テオリアの生活に満足している。そして、この生活が続くことを強く願っている。21世紀はテオリアの世紀なのかもしれない。

ちゃんちゃら可笑しいぞ、今の内閣。

笑いが止まらない。そもそも、新しい資本主義とは、成長なき社会発展のことだ。成長の時代は終わったというのが。世界の経済学の常識なのだから。

もう、万国博覧会に変わって、あるいは一緒に、爆笑博覧会をやれば良いと思う。

マジだぜ。大阪のカジノ構想に、私は賛成だ。

経済学のケの字も分かっていない、底なしの馬鹿とは、話す言葉がない。

私の論文は、日本経済新聞に特集され、私はノーベル3賞を同時受賞するだろう。

貴方では勝負にならない。本物の経済学者、水野和夫氏と議論したい。

さあ、選挙はゲームだ。大爆笑を次々と。俺のバックには、国際酒類資本も、ジョージ・ソロスもついてるぞ。勝負は既に終わっている。後は、どう笑いをとるかだ。

私は気持ち悪い作り笑顔が嫌いだ。というより気持ち悪い。

慢性心不全で、余命1年と宣告を受けた私だ。死ぬことも怖くなくなった。

私は後世の歴史家に、21世紀を代表する知性と呼ばれたいのだ。

20世紀は、22年前に終わっている。

20世紀の常識は、21世紀の非常識となる。

権力は階層型から、ネットワーク型になる。

コスト・パフォーマンスから、コスト・ベネフィットになる。

豊かさから、快適さへ、インディケーターは変わる。

働く動機が、経済的報酬から、精神的報酬に変わる。

ところで。与謝野肇さんのブレインだった、鶴光太郎さんはどうして絵、いるのだろう。彼は、神戸市立本山第一小学校3年12組の同級生だ。灘高から東大に行った、放射線科医の白水一郎さんも同級生だ。私も全国模試で一桁の順位の成績だったが、この二人の出来の良さに、勉強する気が無くなって、近くて便利な兵庫県立芦屋高等学区に行った。

「乗せろ、抱き込め、舐められるな」は、板坂元の言葉だが、きっと板坂元の名前すらしらないのだろうな。世間では、倍返しがうけているが、芦屋では、男の仕返し100倍という。

もう、手遅れだ。神戸の黒崎様の逆鱗に触れた。

まずは、第1問。

貴方の言う常識とはどういう常識かな。400字以内で簡潔に書け。

ベーシック・インカム議論の基本

ベーシック・インカム(生活上必要な費用を一人一律に給付する形態の基本所得制度。以下BI)は、ややもすると制度として論じられている。制度として妥当か、制度のバリエーションにはどのようなものがあるか、実現可能性の問題としてBIへどう移行するのか、そしてBIにどのようなメリットがあるのかといった議論である。

しかし、このレベルの議論は本質的な問題ではない。BIは勤労観や福祉観、さらには経済システムについての思想である。実現可能性から議論してしまうと、簡単に不可能という結論に至るだけに終わる。BIを主張する者は、制度として矮小化された議論に陥ってはいけない。そうではなく、BIを基本的な権利と捉え大上段に構えなければならない。

超資本主義社会(貨幣なしでは生存できない社会)を強制されている我々にとって、基本所得を受け取る事は、労働とは無関係の生存権=基本的権利であるというのがBIの主張だ。それは実現可能か、持続可能かという問題ではなく、実現されなければならない国家の義務なのだ。BIは単なる福祉の一形態などではない。BIは人類史上の革命なのであって、実現の過程が平易なものではないことは明らかだ。もともとのBIは資本主義の成熟を前提として、月額20-30万円の水準で提言されたものなのだ。このBIの活動の歴史は知っておく必要がある。

一方で、BIを基本権として主張することは超資本主義社会というう批判の対象でもある現実を受容し、肯定することにもなるということも忘れてはならない。例えば、半資本主義で生存権が確保できる方が望ましいと考えるならば、BIを主張する理由は失われる。また、巷のBI推進論者には他の福祉政策を最小化し、行政コストを最小化しようという思惑もある。

BIを実行する主体として国家だけを考えるというのも、想像力の欠如と言えないだろうか。EUが通貨を統合したように、超資本主義社会では、通貨統合だけでなくBI統合ということも考えられる。既存の国家概念を超えて、例えば東アジアBI圏であるとか、それを管理する国家以外の機構の設立も考えられよう。

さて、BIが目指す社会とは何だろうか。現時点では、この点に関する共通の展望は無いようにも見受けられる。それだけに、私たちはBIを通して、新しい世界観、新しい生活、新しい社会心理・個人心理等に思いを馳せることができる。もちろん、それは負の側面も含めての話だ。BIの思想を知らないリバタリアンによる福祉切り捨てのためのBIなど邪道なのである。このことだけは、いくら強調しても、強調し過ぎるということはない。

次世代文明の鍵

ドラッカーは30年以上前から「文明の分水嶺」という言葉を使っていた。この分水嶺が何十年になるのかは後世の歴史家が決めることだろうが、未だに新しい文明の形を明確に予測できる人はいない。もしも、確信を持ってその全体図を語る人がいるならば、それは詐欺師という種類の人だろう。

さて、私も十年以上前から現代文明の根本問題と次世代文明について、いろいろな角度から考えてきた。それらを踏まえて、現時点で明らかなことを簡潔に記しておく。

1.権力
権力が交替したとしても、その構造が変わらない限り大きな変化が起こることはない。ここで言う構造とは、経済、言語、生活様式などからなる世界の文法である。権力はこれらの構造を支配している。私たちはこの支配の現実を認識し、より良い方向に変化させることを考えるべきなのであって、必ずしも新しい権力を求める必要はない。

2.経済
大衆はいまだに経済成長を求めているが、世界の支配階級が「脱成長の経済システム」を模索していることは明らかである。しかし、多くの経済学者の努力にも関わらず、脱成長の経済システムには人々を労働へと掻き立てるエンジンがない。つまり、新しい誘因力を発明する必要がある。

3.言語
人々を支配しているものは言語であり、言語を支配しているのは権力である。たとえば、20世紀に特有の言葉として以下のようなものがある。
効率、システム、プロジェクト、健康、発展、進歩、開発、成長、豊かさ・・・。
私たちは知らない間に特定の価値体系に洗脳されているということだ。
次世代文明では、まったく異なる言葉が重要な役割を果たすことになるだろう。

4.生活様式
日本を例にとるならば、大家族から核家族、さらには離婚、非婚という形での個人化と地域コミュニティーなどの中間共同体の消失が大きな問題だと考えられる。この形態は権力と個人が直接に接続される形であって、とても管理されやすい脆弱な状態だと言えるからだ。次世代文明では、新しい形態の第一次集団とコミュニティが大きな役割を果たすことになる。

次世代文明をリードするのが帝国だとは限らない。経済戦争の勝者だとは限らない。もしかしたら、国家が大きすぎること、広すぎることは、進化の妨げになるかもしれない。

鍵を握るのは文化的な卓越であり文化面での革新だ。もっとも、各国の家族形態、宗教、社会構造は大きく異なるので、次世代文明がどこまで世界共通の特徴を持つのか否かは不鮮明ではある。

はたして私たちはどのような生活を望んでいるのだろうか。この点について、現在の延長線上の社会、現在の延長線上の言語ではなく、白紙の状態から夢想することも有益だと思う。

文明の変化は制度に依存しない。そうではなく一人一人の意識の変化だけが、次世代文明への道を切り拓くのである。おそらく、いまの中高年が次世代の姿を見ることはないだろう。ただ、いまの若者は次世代文明を経験するかもしれない。言い換えると、主役はいまの若者だということだ。健闘を祈る。