白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

大衆vs市民

右傾化の流れは日本だけではない。ご存じの通りヨーロッパでも右派勢力が力を伸ばしている。自称知識人達はこうした流れを憂い危惧するのだが、その思いをブログや呟きにしても影響力などあまりない。夏目漱石の個人主義は、仲間を集めて行動することを否定した。しかし、それで民主主義が機能するのは誰もが漱石的個人主義者になった場合のみだ。そのような状況が生まれる可能性はゼロである。 政治は理性のみで行われるわけではない。ラディカル・デモクラシーの提唱者であるシャンタル・ムフは次のように述べている。

政治的な欲動には「個性と卓越性に向かうもの」とは反対に「群衆の一部として大衆と一体化する瞬間の忘我の境地」がある。人びとが政治的に行動するためには集合的アイデンティティと同一化できなくてはならず、政治の情動的次元は決定的に重要なのだ。(「政治的なものについて」明石書店)

選挙では、この欲動を獲得した者が勝つ。いかに優れた理念と政策があったとしても、知識人にしか理解できないようなコンテンツやスローガンでは敵失を待つしかない。現在の政党政治では、単純な理念とスローガンを掲げ、マーケティング技術を駆使して支持者を集めることが最優先とされる。そこでの議論には深みがない。そしてなによりも当事者がいない。討議はショーというコンテンツになり、市民はただの消費者となる。 ラディカル・デモクラシーの立場は、議論すれば相互理解が可能でよりよい合意が得られるとする、ハーバーマス的きれいごとと鋭く対立する。政治とは本質的にヘゲモニー(覇権)を賭けた闘争なのだ。民主的であるとは、非暴力は当然として、対立するものが討議(闘議)する場があるということであり、その意味は差異を明確にすることでしかない。 今も昔も、社会は情動で渦巻いている。政治家が情動を利用することを卑劣だた言うことはできても、それが政治だと言われたら返す言葉もない。もちろん情動にもいろいろある。日本というアイデンティティにしがみつく情動もあれば、近代の理念に熱狂するという情動もある。しかし、自らが情動を持つ存在だということを認めたうえで、理性と感性を働かせるのが人間であることを忘れてはいけない。 いま、いろいろな政治的情動がクラスターを形成して渦巻いている。日本でもデモや集会があり、ネット上には有象無象の言説があふれかえる。そして、大衆はそういう市民を敬遠する。市民がアプローチするべきは権力である以上に大衆なのだ。 メディアの情報に洗脳され利害で行動する大衆と、政治的存在であるという自覚を持った市民の溝は深い。そして、言うまでもなく大衆は情動的に操作しやすい。市民は安直に批判するのではなく、より戦略的に考え抜いて、新しい戦術を生み出す必要がある。そのためには、一定の価値観を共有する人々による、各論での差異には寛容な「ゆるやかな連帯」が必要となるだろう。 市民から政治的情動が失われたとき、民主主義は最悪の政治形態となるのだ。