白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

ビジョンに対する理念の優位

「ビジョンに対する理念の優位」というタイトルから、リチャード・ローティの「哲学に対する民主主義の優位」を連想した人は哲学好きだろう。しかし、今日の話はローティーではない。

 

最近は経営でもソーシャルでもビジョンが重要視される。魅力的なビジョンを作れる人間はヒーローだ。しかし、ビジョンがいくら魅力的でも、メリットとデメリットは必ずある。誰もが満足できる社会など存在しないことは明白だ。

 

現代では夢や成功が善とされ、エビデンス(証拠)のない方法論を書いた本が飛ぶように売れる。もちろん、そういうものに批判的な人もいるが、メディアの勢いに勝つことはできない。

 

俺もビジョンを作り共有することは否定しない。しかし、それ以前に基本となる理念が無ければいけない。自由、平等、博愛などというスローガンの欺瞞は明らかだ。被雇用者は人生の半分以上を拘束されているし、生まれながらに環境も能力も違う。博愛というのは同志愛が原義なのだし、人間には好き嫌いもあれば、敵意や嫌悪という感情から逃れることは出来ない。リベラルとは嫌悪の自制という言葉もある。しかし自制にも限度はあるだろう。

 

「人道的見地から暴力を用いる」などという言説がまかり通る時代。もっとも、権力とは合法的に暴力を行使する力という定義もあるくらいだ。国際社会というと世界的な規範や常識をイメージするおめでたい人も多いが、そこには表と裏のある複雑な関係があって、素人が実体を理解できるはずもない。時間をかけて調べることは可能だが、真相を知るのはビルダー会議の中枢くらいではないのか。世界は巨大資本のネットワークが支配し計画していることなど陰謀論などではなく常識だろう。

 

問題は練りこまれたビジョンという夢に向って邁進するよりも、自らが考える行動理念に従って行動することの方が重要だという点だ。理念を共有しないものが、浅薄なスローガン的ビジョンで集結するというのは危険なことなのである。

 

法律や社会制度を設計することは出来ても、社会全体を設計しようとするのはナンセンスでだ。それは歴史が雄弁に示すところでもある。

 

時代背景なんだろうか、最近の若手論客は切実かつ真剣に日本の未来を考えている。ただ、「こんな日本にしたい」というビジョンが先行して、基本的な理念を詰める作業に欠けているように感じられる。

 

国家とは何か。自由とは何か。社会とは何か。家族は、コミュニティは、外交は、経済は、福祉は、雇用は。今の論壇は、どのような理念を基本に考えるのかが曖昧であるという点で、床屋談義の域を出ていない。もちろん、理念を明示することは大変な仕事である。しかし、基礎工事をせずに家を建てることは馬鹿げている。私たちは決して手順を間違えてはいけない。

 

現実主義とは厳しいものだ。ただ、今の若者には圧倒的に優秀な人材が多い。今は競争というゲームだけではダメな時代だ。ゲームの基本は競争と協調に変わった。そして、ある時の新しい時代の理念が生まれる予感がある。

 

楽観とは気分ではなく意志である。日本の未来はそれなりに明るい。俺はそう思う。