白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

難しいことを簡潔になど説明できない

俺はフリーの哲学者になる前、サラリーマンをやっていた。理由は省略する。俺にも被雇用者という暗い過去があったのだ。同情されるか嫉妬されるかわからないが、とりあえず告白しておく。

 

俺がサラリーマンだった頃、社内でセミナーを開き講師をする機会が何度もあった。目的は受講者の知識やスキルの向上だ。真面目な俺は本格的に準備し、レジュメや資料やパワーポイントを作り、受講者についてリサーチもしベストを尽くした。もちろん終了後にはアンケートをとり、その結果を分析したうえで社内に公開した。

 

いつも評判は良かった。しかし、ある質問にとても驚かされた。

「難しいので、簡単に説明してもらえませんか?」

ちょっと待て、俺はできるだけわかりやすく説明しているのだ。だいたい難しいことを簡潔に説明できるのなら、それは難しいことではないだろう。その御仁は、時間をかけて基礎を積み上げる努力をしたくないのだ。100%の受講者の満足などという非現実的なことは目標にしていないが、その御仁の願望は講習会のレベルを下げて欲しいということだった。

 

世間では「わかりやすさ」が求められる。しかし、各人の知的レベルは天と地ほど違う。そして、全体のレベルが上がることが望ましいのに、現在は全体のレベルを下げて欲しいというニーズが高まっている。資本やメディアそして政治は、こういったニーズを満たして行く。これは社会として危険な徴候だ。

 

マスコミや政治、資本主義やマーケティングを悪者にして批判したところで解決策など生まれない。現実的に可能なことと言えば、メディア・リテラシーを持って情報を集め、考え、学び、そしてより高いレベルで語り合える場を持つことだろう。

 

ネット上でクラスター化が進行していることを問題視する人もいるが、これは必然的なことだ。むしろ、そのようなクラスターが生まれるのは良いことだ。ウェブなら、地理的、時間的な制約を超えられる。

 

最近の書店には、専門的で難しい問題を簡単に理解できるかの如く書いた本が多数置かれている。多くの人が問題を簡単に解決したいと思うようになった。それは、一つの流れでもあり、文化的な変容なのかもしれない。ただ、そこには大きな落とし穴がる。それは、表層的には楽しそうにみえても、生きることの喜びから疎外されて行くということだ。そして、社会が資本の意のままになり民主主義が形骸化するということだ。

 

うむ。やはり難しいことを簡潔には説明できない。このエントリーがその一例だろう。(笑)いや、できるという人は是非とも事例を示して欲しい。