白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

この2年でSNS利用の常識は逆転しました

私はSNSおたくである。mixiには2005年に入り、twitterも早期に入った。facebookには抵抗したが一応入ったし、去年はニコ生で熱心に放送していた。もちろん、ネットで知り合いリアルで会うというのは普通のことだった。

2011年。東日本大震災の時はSNSが一番注目を集めた時期だったように思う。なかでもツイッターは大きな機能を果たした。そして、この頃の論調は「いくつものコミュニティに帰属し、ゆるいつながりを多数持つこと。そして、分りやすいキャラを作ること」だった。

ネットワーク分析に関する本も多く出版され、まるで新しい時代を生きるための必須のツールのように言われていた。しかし、私の感想ではfacebookがすべてを変えた。実名登録と商業利用。世界中の人がデータベース化され、マーケティングに革命が起きる。SNSは監視社会の基盤であるとともに、マーケティングのインフラとなった。日本の企業においては就職活動にfacebookの利用を義務付けるところも現れた。社内でfacebookを用いている会社もある。なんとも窮屈なSNSなのだが、前にも書いた通り、うまい撤退障壁が設計されているので、やめたくてもやめられな。

さらにはLINEが登場し、若い世代ではスマホが必携となった。もちろんデジタルデバイド(お金とリテラシーの側面で)という格差問題も生じている。社会学者の鈴木謙介氏は近著「ウェブ社会のゆくえ」に「多孔化した現実のなかで」という副題を付けている。多孔化とは本を読まないとわからない表現だろう。簡単に言えば現実世界という球状の空間にスマホなどで別の空間とつながるいくつもの孔(あな)が、常に空いているような状態を言う。

この現象は生活様式や人間関係、諸制度の姿を一変しようとしている。ソーシャル疲れという言葉も現れた。SNSを辞めて行く人も少なくない。特に未成年では、いじめの道具という性格を帯びてきている。そんな中で、2年前のイケイケSNSの常識はまるで変わってしまった。

慎重であれ。人間関係を広げるな。コミュニティは必要最小限にせよ。目的を絞れ。利用時間を決めよ。つまらないSNSはやめろ。人間関係を減らせ。などなどが、現在の考え方の流れだろう。近日、千葉雅也氏の「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」という本が出版される。ここでは「接続過剰の世界で切断の哲学を思考する」といったことが書かれているという。

前出の鈴木氏の日常は完全に多孔化していると言う。細分化された時間を組み立てて仕事や生活をするような日常。実に器用だなと感心するほかない。俺などは、面倒なので外出するときはパソコンもスマホ持たない。ガラケーだけだ。もっとも、一日家のパソコンに向かっていることが多く、かなり多孔化してしまっていることは認めざるを得ない。

鈴木氏の著書では社会学的な立場から思索が展開されていったが、この多孔化という生活の変化が、発達心理学、臨床心理学、脳科学などでどう定義され問題とされるのかという点にも興味がある。MRIで見ると、通常人の脳と、多孔化した人の脳には大きな差が生じているように思うのだ。

誰か有能な若者に「ソーシャール・ネイティブの基本と常識」という本を書いて欲しい。もっとも、そういう本を読んでも、中高年の脳の構造は変わらないだろうが。人類の時代は、あと30年だ。30年後には新人類の時代になるのだろう。ふむ、俺は生きているかな・・・?(微妙だ)