白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

コミュニティ性とクラスタ性の関係についての考察

コミュニティというのは家族や学校、会社や地域社会、あるいは趣味の集まりなど人間的なつながりのある集団のことだ。利害抜きの第一次集団から、単なる制度的なものまで、その強度はいろいである。

一方、クラスタとは、個人の複数の属性や特性を数学的手法で分析することによって分類された集団のことだ。クラスタ分析の手法は様々だが、その生みの親はマーケティングである。顧客を特定の要素でクラスターに分けることで、それぞれに応じたマーケティングを効果的に行うことができるようになった。ネットワーク分析と併用する場合を除き、クラスタ分析では個々人の関係を考慮することはない。いくつのクラスターに分けるのかも用いる手法により大きく異なる。

数学的な説明は省略して、ここでは精神的なつながりが高いことをコミュニティ性が高い、属性が似ているこおをクラスタ性が高いと呼ぶことにする。こうすることで、集団を以下の4つに分類できる。

1.コミュニティ性が高く、クラスタ性も高い集団
2.コミュニティ性が高く、クラスタ性の低い集団
3.コミュニティ性が低く、クラスタ性の高い集団
4.コミュニティ性が低く、クラスタ性も低い集団

現代の傾向として家族や地域社会といった第一次集団のコミュニティ性は低下していると言われている。また、ある大学教員は、昔は大学のクラスはコミュニティだったが、今はただのクラスタになったと語った。これはコミュニティのクラスタ化と呼ぶことができるだろう。

逆にインターネット、特にSNSの普及で希少な趣味や嗜好を持つひとが出会い集団を作るケースが増えた。この集団のクラスタ性が高いかどうかは調査しなければわからない。しかし、ネットで知り合うことからコミュニティが次々と生まれている。これは、クラスタのコミュニティ化と呼べる。

簡単に言い切ってしまえば、いま起きている現象は「制度的コミュニティのクラスタ化」と「クラスタの非制度的コミュニティ化」だ。また、こうも言える。人はコミュニティを喪失し、コミュニティに飢え、コミュニティを創出した。見方を変えると、これはコミュニティの非制度化でもある。家族や学校、会社といった制度的集団のコミュニティ性が低下し、そうではないもののコミュニティ性が上昇しているのではないのか。

現代フランスの哲学者スティグレールは人間を属性で見ようとするマーケティングこそが現代の病理であり、人はそれぞれに特異な存在だということを自覚することが重要だと指摘する。その通りだとは思う。人を属性で見ることには危険を感じるし、いまのマーケティングはとても危険だ。しかし、そういう時代に逆らうことなどできうだろうか。せいぜい、システムの危険性を知って行動するといった程度のことしかできまい。

いずれにいても、複数のコミュニティに属すことと、それぞれにおける位置を正しく確認しておくことは、いまを生きるうえでの必要条件だ。そして、悪いコミュニティから抜け出すこと、流動的過ぎる状況に陥らないようコントロールすることも必要になってくる。コミュニケーションは多ければ良いというものではない。一日中スマホを手放さななどというのが進歩だとは思えない。それこそ、マーケティングの罠に落ちた人々なのだと思う。そこにどんな危険が潜んでいるのか。それを知るのは、10年後、20年後になるだろう。