白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

11.闘技的民主主義

シャンタル・ムフ。1943年ベルギー生まれ。女性。ラディカル・デモクラシー(闘技的民主主義)の主張で有名な女性政治学者だ。本書は政治学の専門書だが、一般人でも十分に読める内容になっている。

ムフは冷戦終了後の世界を、合衆国のヘゲモニー(覇権)に対抗する正統的な回路が存在しない一極的な世界として認識する。それは決して調和的ではなく、新しい種類の敵対性が無数に炸裂する世界だ。例えばテロリズム。それは病的な個人に発するものだはなく、広範な地政学的的条件による必然だとムフは指摘する。

本書(「政治的なものについて」明石書店、2008)の目的は、現在の「ポスト政治的」時代精神に対する批判の基礎となる枠組みを描くことだとムフは言う。ここで「ポスト政治的」という言葉については説明と注意が必要だろう。議論を通じて合理的な問題解決が可能であると考えるハーバーマス的なリベラリズムをムフは否定するのだ。政治的なものが、いまや道徳の作用領域で善悪として上演されていることへの強い懸念。リベラリズムの賞賛する寛容への嫌悪。その理由は、一つの権力がみずからの支配の事実を隠ぺいしつつ世界規模のヘゲモニーを確立しようとしている危機認識に由来する。

ムフは本書でリベラリズムに限らず、第3の道であるコンスモポリタン民主主義、マルチチュードといった各種対抗モデルも徹底的に切り落として行く。リベラリズムの合理主義的で個人主義的な方法は、結果として政治的なものを否認するとムフは言う。ムフの言う政治とは、その本性上の対立だ。われわれ/彼らの区別こそが、政治的なアイデンティティを形成する条件だと考える。そして、そこには宿命的に敵対性が宿る。ムフの思想では、あらゆる社会秩序の本性はヘゲモニー的なのだ。問われるのは、そのヘゲモニーの性質ということになる。

第2章では、政治と欲動についての興味深い記述がみられる。政治的な欲動には「個性と卓越性に向かうもの」とは反対に「群衆の一部として大衆と一体化する瞬間の忘我の境地」があることを指摘する。これは群衆を魅惑する性質がある。そして、合意の意義を強調することは政治的無関心を招くのだと結論づける。人びとが政治的に行動するためには集合的アイデンティティと同一化できなくてはならず、政治の情動的次元は決定的に重要なのだと。そして、政治から情念を除去することを望み、それが可能であると主張する理論家は政治的なものの力学を理解していないと付け加える。現在のネオリベラリズムのヘゲモニーにはいくつもの対抗モデルがある。ここで重要となるのは、政治の本性と目的についての徹底的な再考だとムフは言う。

第3章では、ウルリッヒ・ベックの再帰的近代の理論やリスク社会の概念、サブ政治についてなどげ検討される。さらに、アンソニー・デモンズのポスト伝統社会、つまり左派/右派が時代遅れになっているという説も取り上げる。しかし、ムフはこれが気に入らない。理由は二つある。一つには政治から対抗者の概念を除去しようとしていること。もう一つは、政治的なわかりやすさが消えていることだ。ムフはペリー・アンダーソンの以下の言葉まで引用している。「民主主義的な生活が対話であると考えることの危険は、政治のまず第一の現実が闘争であり続けることの忘却である」言い方はやや過激だが、言いたいのは暴力の肯定ではない。政治が論争の場でなく、単なる操作の場に引き下げられることが、民主主義の危機を招くと主張しているのである。

第4章では、ヨーロッパの最近の事例についての分析が加えられる。右傾化したオーストリアで何が起こったのか。ベルギーはどうだったのか。右旋回したイギルスのブレアの背景。対テロ戦争を背後で操るネオコンの戦略とは何か。この章の末尾ではハーバーマスが徹底的に槍玉にあげられる。コスモポリタンな法が世界中で受け入れられるという夢想に嘔吐を示す。そしてまた、ローティーも以下の点で批判される。ローティーは社会の客体性が、権力の作用を通して構築されていることを認めていない、と。

第5章は「どの世界秩序を目指すのか」という題だ。いろいろな学者の著作や文献に批判が加えられる。ダニエル・アーチブスの「コスモポリティカル民主主義」に対しては、構成員のあいだで権力が不均等に配分されている国連を強化し、より民主的に改革することが可能と考えるのは非現実的であるとして却下する。さらに、メアリーカルドーのように、民主主義的な手続きをグローバルなレベルで再構成できるとも考えてはいない。マルチチュードに至っては何の戦略もないもので、第二インターナショナルを想起すると一刀両断だ。とにかく、ムフは統一された世界という幻想を捨てようと呼びかけているのであり、多元主義を真剣に検討しようと呼びかけているのである。

結論でも示される通り、多元主義にも限界はある。そして、社会の分裂の認識と対立の正当性を認めることこそが重要なのだという。民主主義は必然的に対抗的でなければならない。これがムフの主張だ。例えば、人権の普遍性についてだが、これもまた西洋文化的発想なのだとムフはいう。それをアジア諸国などに押しつけるのは良くないことであり、ヨーロッパはヨーロッパ中心的な発想を破棄するべきだとムフは主張するのである。

ムフの希望はユートピア的ではもちろんない。ただ、現在の一極化したヘゲモニーとポスト政治的状況に対抗して、多元的なものに賭けてようとしている。オルタナティブはヘゲモニーを多元化することでしかないというのが結論なのだ。そして多元化とは新しい思想などではまったくなく、地域的な文化や伝統、そして宗教なのだろう。前に進むことにも価値はある。と同時に、古いものを守ることにも価値がある。はたして私たちはいま選択肢を持っているのか。それを思うと、いつも眩暈がする。