白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

12.意識の商品化という悪夢

人が人であるというのは、どういうことか。それは、そこに「われわれ」があるということだ。そして、その前提となるのが、特異なものとしての自分の存在である。人はナルシステでなければいけない。真にナルシストでなければ、人を愛することはできない。アリストテレスの言うフィリア(友愛)こそが、われわれという意識と共感の前提なのだ。

しかし、現代のハイパーインダストリアル社会にあって、もはや人は特異な存在としての自分を認識できなくなっている。個人は、いくつかのセグメントによって特徴づけられた一つのパターンに過ぎない存在となってしまっている。土地、労働、貨幣に次いで商品化されたもの、それが「意識」だった。ハイパーインダストリアル社会においては「意識の商品化」が常態化しているのだ。それが適応の条件とされているのだ。そこには、われわれも、友愛も、共感もない。現代はそういう意味において危機的な状況にある。

ハイパーインダストリアル社会。そこでは、日常生活がインダストリアル化され、機能的なものとしてフォーマット化されている。その罠にかかっているのは労働者だけではない。管理者も経営者も同じことだ。この社会における主要な兵器はマーケティングである。より正確に言えば、マーケティングに属するとされるある種の技術である。私達は消費という快楽によって、快楽から疎外されて行く。人は消費によって自らをプロファイリングする。それは意識的である場合も、無意識である場合もある。現代のマーケティングはサブリミナルに脳の情動領域を侵食して行く。

今、脅かされているのは、人の精神であり、知性であり、情動であり、感覚だ。言い換えれるとそれは人としての能力そのものだ。このような悲惨な状況は、大衆とか貧困といった問題とは違っている。危機に晒されているのは、すべての現代人だ。この問題に気がついている知識人といえども状況を回避することは出来ていない。逃げ道は見つからないし、物理的に生きて行くためには、現代という環境を受容し、利用するしかない。

さて、本当に逃げ道はないのだろうか。本当に人間は瓦解しているのだろうか。哲学者や思想家の過激な言説はあまりに一方的で、極端なものではないのか。そういう慰め方もあるかもしれない。しかし、現実の破壊はあまりにも壊滅的で、生き残った者たちを見つけること、あるいは治癒を試みることは大変そうだ。

処方箋はいくつもある。しかし、それを薬と取り替えてくれる薬局はどこにもない。つまり、今の世界では政治が機能していない。あるいは、芸術が機能していない。機能しているのは資本主義であり、マーケティングという技術だ。そして今、注目を集めているのが感染である。感染マーケティング。これはおそらく最終兵器と言えるものだろう。私たちにはワクチンが必要なのだ。あるいは抵抗する武器が。

現代文明の中で、都市生活の中で、または治安の良い地区に住みながらも、人々は現代の戦争の最前線にいる。われわれの敗北は「人類の歴史」の終わりとなる。われわれは誰も敗北を望まない。

ベルナール・スティグレール(1952−)は、気鋭のフランス人哲学者であり、ドゥルーズ=ガタリの系譜にある。本書のタイトルである「象徴の貧困」とは、知的な生の成果である概念、思想、定理、知識などと、感覚的な生の成果である芸術、熟練、風俗などの双方を指す。本書の副題は「ハイパーインダストリアル社会」だ。そこでは、われわれの前提となる個(自分)が衰退し、退化、解体されているのだとスティグレールは主張する。本書では二つの映画と一つの寓話についての分析と省察が行われて行く。

訳者あとがきにある通り、本書は哲学の専門家ではない一般の読者にも読みやすいように工夫されている。もっとも、刺激的な本なので、個が触発され日常が破壊されるということは有り得る。知的抵抗力の無い人は読まない方が良い。