白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

次世代文明へのシナリオ

■激変した資本主義のシステム

1990年代、従来の世界経済の基本システム、つまり資本が利潤を生むというメカニズムは崩壊の危機にあった。それを救ったのが金融工学とIT革命だ。高度な数学を用いた金融商品を開発することで、アメリカの、そして世界の経済は息を吹き返した。しかしこれは新しい金融という巨大産業の誕生という話にとどまらない。経済システムそのものが根底から変化したのである。

いわゆる近代経済学のモデルは完全に有効性を失った。経済を測る基本であるSNA(国民経済計算)も現在の経済の実態を把握するのには不適切なものになった。SNAでは金融産業の、そしていまや実物貿易の100倍以上に膨らんでいる国際資本取引の実態も見えてはこないのだ。

資本主義は中心と周縁を、端的に言えば富める者と貧しい者をつくることで資本家が利潤を積み上げて行くシステムだ。しかし、新興国の台頭、いわゆるグローバル化は周縁をどんどんと食いつぶしている。そして、新しい周縁は国内にしか残されていないというのが先進国の現状である。つまり中産階級は没落し、どんどんと下層階級が増える貧困化が進行している。相対貧困率で見れば、その先頭を走るのがアメリカであり、日本がそれを追いかけているということになる。

従来、国家は富の再配分を行って、富裕層から貧困層への移転を調整していた。しかし現在では、富裕層は国家社会主義で保護し、中間層、貧困層には新自由主義を押しつける形態となっている。バブルが崩壊しても金融機関は保護される。その源泉が中間層の税金であることは言うまでもない。言い換えると、数年に一度バブルを崩壊させることで、富者は富者のまま君臨できるということだ。

アベノミクスも似たようなものだ。成長戦略という古き美名のもとに既得権益層を守るというのがその本質だ。これは古い時代の発想であって、現代の世界経済システムからすると国民を苦しめる愚策としか言いようがない。

高度成長期やバブル期を経験した古い世代は、経済成長によって豊かさが得られるという発想を捨てられない。大企業や公務員といった利権ネットワークに加わること。あるいは、所得、資産、地位を向上させること。そういうことが正しいと信じていた人が大半であり、そのために努力することがまっとうだと思っていた。

しかし、現在の経済システムでは、それは完全に無駄な努力に終わるだろう。そもそも、収入や地位を目的とし、それを心の支えにして生きるというのは哀れであり、愚かであり、滑稽だとも言える。これは俗物主義であり、また、資本主義の精神の神髄でもあるが、もはやこの発想では豊かさも幸福も得られはしない。

資本のプロパガンダであり、政府の強い規制の中にある新聞やテレビといったマスメディアの経済情報に踊らされてはいけない。そこに登場するのは現在の経済システムを知らない時代遅れの経済学者か御用学者がほとんどだ。さらに悪質なのが、権力が公認している反体制派や不満分子を吸収するための偽装団体だ。偽装団体に変革の意思など毛頭ない。昔の社会党のようなものだ。言説を見極めるには、意識を高く持って経済システムの現実を正しく認識すつことが不可欠なのである。

 

■成長主義という亡霊

経済成長が経済の目的であり、それを実現するのが経済学だと勘違いしている人は少なくない。経済成長というのは世界の支配階級が練り上げたスローガンから始まっている。人々に労働を奨励し、豊かさとか、幸福という夢を与えることで利潤を拡大するための作られた文法なのだ。そして、権力に迎合する形で新しい理論を作る経済学者はとても重宝な存在だった。20世紀の経済学の多くは権力の道具でしかない。しかし、高齢者の多くは長年の友とも言える「経済成長」を金科玉条の如く信じている。高齢化が進む民主主義の国で票を得るためには、経済成長と叫んでおけば間違いはない。そもそも、政府の経済政策ごときで、経済成長や景気回復が可能だと思っている国民が多すぎるのだ。

成長戦略は、確実に国内の貧困層を増やして行く。これは経済学的に約束された失敗だ。しかし、先に述べた通り、真の目的は富裕層の保護にあるのだから、その意味では成功するかもしれない。

経済成長が必要だと信じているのは高齢者だけではない。若者もまた古い時代の経済学を学び、どうすれば経済成長が可能かを考える。そもそも目的と目標が間違っているということに気がついていない。経済成長というのは現代最強の亡霊なのである。

もっとも、世界の巨大資本も国家権力も、一流の知性を抱えている。経済成長が亡霊に過ぎないことも、新しい経済システムがどうなっているかということも熟知している。もちろん現在の経済システムに満足してはいないだろう。多くの知性は、新しい経済思想、経済システム、経済秩序を模索している。しかし、決定打どころか、1本のヒットも打てないでいるのが現状だ。

決定打が出ない限り、成長主義という悪しき亡霊は生き続けるだろう。

 

■次世代文明への三つのシナリオ

・シナリオ1

成長主義政策を推進した結果、国内での格差と貧困が拡大する。

政治への不満が大きくなり、デモや暴動、さらには内乱が起こる国も出てくるだろう。そして、国民の不満をおさめる常套手段が戦争である。本格的な大戦のできる時代ではない。こうなると、局所的な紛争を仕掛けることで、国民の意識を操作し権力の維持を図るにちがいない。もちろん日本もこの例外ではない。

・シナリオ2

成長主義から、国家による再分配の適正化に重点を転換する。

日本は社会保障費の増加が著しく財政が大変だという通説があるが、ヨーロッパの先進諸国と比較すれば国家予算に占める社会保障費の割合はまだまだ少ない。

しかし、複雑な制度を抜本的に変えることは容易ではないだろう。国民は自らが貧困になって初めて現実に気がつく。それまでは、自分で自分の首を絞めるような政策を支持することだろう。

このシナリオは、シナリオ1よりもマシではあるが、根本的な解決とは言い難いし、可能性としてはシナリオ1の方がはるかに高いと思われる。

・シナリオ3

新しい経済思想、新しい経済システム、新しい文明の文法によって、一人一人の意識と行動を変える。

例えば、フリー、コモンズ、シェアというキーワードを経済システムの中に組み込み、お金が無ければ生きられないという環境から脱却することだ。

また、近年のフランスのように労働時間の削減を法制化したことで、国民の幸福感が増し、価値観が変わったという成功例もある。もっとも経済成長信者は、この政策が経済成長を阻害したとして失敗と評価しているが。

可能性が低いと思われるかもしれないが、シナリオ1という最悪の事態を回避するためには、シナリオ3しか道はない。もっとも、シナリオというには曖昧に過ぎるという批判には甘んじるしかない。しかし、意識の高い読者諸賢には、是非このシナリオを深く掘り下げ、煮詰めて、アウトプットまで漕ぎつけて欲しい。

どこかで聞いた台詞ではないが、諦めたら終わりだ。

 

■いま私たちにできること

まずは、よりよい収入を目指すといった俗物主義と決別することだ。特に、被雇用者でありながら、長時間労働に人生の大半を費やするというのは倒錯している。生活を楽しむこと、好きなことや、やりたいことに時間を使うこと。大きな家をローンで買って、自動車までローンで買うような時代ではない。古い世代は意識を変えた方が良いし、若い世代は古い考えの押しつけを拒否した方が良い。

経済の理念も逆転させよう。アダム・スミスは「各人が経済的に利己的な行動をすることで、社会全体の経済が最適化される」と言った。しかし、現代はスティグリッツが述べるように「各人が利他的に行動することで、自己の利益が増す」という環境に変わった。

メディアが放つ「経済至上主義」の洗脳活動に侵されることなく、自分好みのスタイルで満足できる日々を過ごすことだ。いろいろな解釈があるが、今の日本では貧しくて可哀相とされている20代の生活満足度が一番高いという不思議な結果がでている。おそらく彼らは、俗物主義とは無縁であり、気の合う仲間との交流によって満たされているのではないのか。

私の言う利他的とは、慈善団体に寄付することではない。そうではなく、身近にいる見える相手に対して思いやりを持つということだ。これは、古い会社において同僚がライバルであるのとは対照的な態度とも言える。利他的になることで、本当の意味でのつながりや、仲間、コミュニティが生まれることだろう。また、こうした中間的集団は、孤立という問題を回避するツールにもなる。

経済成長政策によって、家族や地域コミュニティが形骸化し失われてしまったと言われている。それはまた、利己的であることの必然でもある。利他的に変わることで、第一次集団は復活する。それは単なる回帰ではなく、新しい形のものだ。

繰り返しになるが、最後に強調しておきたい。間違っても、俗物主義や上昇志向あるいは精神主義に陥ることだけは避けたいものだ。もっとも思想信条は自由なので、ただの個人的な意見です。

 

■お薦めの手軽な(?)新書

世界システム論、脱成長の経済学、「文明の文法」のフェルナン・ブローデル、「帝国以降」のエマニュエル・トッドなど次世代文明、次世代の経済システムに関する本は多数あるが、今回は「確かな入門書」とも言える水野和夫氏の新書を紹介させていただきます。

 

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

 

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