白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

権力・システム・生活

 

■歴史を見る眼・社会を見る眼

学校で習う歴史あるいは社会は、伝統的に権力の変遷であり、社会システムの変遷だ。もちろん文化についても学ぶが、一般人の生活の変遷を深く学ぶことはない。それを知るには、大学でのマニアックな専門で学ぶか、本を読むしかない。

ウェブ上には多くの情報や個人的な意見や主張が散乱している。最近は、限られた世界しか知らない人、歴史の意味、社会の多様性を知らない人が、言い換えると教養を持たない人が、ポピュリズムの流れに乗って、あるいはマーケティング的発想で、トンデモナイことを言っている。これは一般人だけの話ではない。政治家はもちろん、専門家や、文化人にも、こういう人は珍しくない。いや、例外を探す方が大変なくらいだ。

愚かな言説に振り回されないためには、歴史を知るとともに、現代社会の多様性を知ることが重要だ。多くの人が、自分の属する世界を中心に据えて考え、それが普通だと思い込んでしまう。異なる世界との交流が少ないために、自分とは異なる意識や考え方を知る機会もなければ、理解することもできない。そして、そういうものに接すると、「わからない」という一言で排除する。そういう姿勢が、多くの問題を引き起こし、社会の病理を深刻なものにしている。

ソクラテスと同じく、私たちは自分が無知であることを忘れてはならない。

 

■仕事と生活を分けることの奇妙さ

近年、ワーク・ライフ・バランスということが言われているが、これは奇妙な言葉だ。仕事とは生活の一部なのであり、仕事と生活を独立した別の分野として捉えるというのは恣意的な操作である。この言葉は、仕事が社会的な義務であること、そして、生活と仕事には「別の論理」があるということを暗に主張しているのである。

仕事と生活は別なのだ。仕事に生活の論理を持ち込んではいけない。ワーク・ライフ・バランスには、仕事を生活から切り離す狙いが秘められている。しかし、本当にそれで良いのだろうか。歴史的に見れば、これはとても異常な(新しい)考え方だ。

ワーク・ライフ・バランスの提唱者は、仕事に偏った生活の見直しを意図したのかもしれないが、結果としては「ポスト・フォーディズム」をリニューアルしただけではないだろうか。ワーク・ライフ・バランスという言葉は、産業社会以降の労働観の特殊性を象徴しているのではないのか。

 

■権力とシステム

18世紀までの時代には、ヨーロッパにおいても交換経済とは無縁の自家消費を中心とした地域が多数存在していた。その後、市場経済というシステムあるいは資本主義的生産システムは世界に浸透し、すべてが商品化されていった。ポランニーは土地、労働、貨幣を禁断の商品として、これらの商品化を批判したが、いまではコミュニケーション(会話)すらも商品化されつつある。昔は権力がシステムをコントロールしていたのだが、現在では権力がシステムに支配されつつある。巨大資本が民主主義を飲み込んだとも言われるが、巨大資本とはシステムそれ自体ではないのか。そこに人間の顔はない。

ベーシック・インカムというのも不思議なアイデア(思想)だ。お金が無ければ生きていけない世界(私は完全資本主義世界と呼んでいる)における生存権を保証する制度なのだが、問題視するべきなのは「完全資本主義世界」という社会形態ではないだろうか。なにも社会主義を主張しているのではない。近年のベスットセラーにクリス・アンダーソンの「フリー」という本があるが、そこには資本主義の進化の可能性が秘められているように思う。思想や観念から生まれる制度よりも、システムの進化と更新の方が遥かに強力なのだ。

国民主権の民主主義国家である日本には、大きく分けて二つのタイプの人がいる。一つは市民としての強い自覚を持って勉強し、発言し、さらには活動する人。もう一つは一般人などまったく無力だと考え、政治や社会に興味を持たない人だ。いや、一番多いのは、誰かの信者になって社会参加した気分を味わおうとする人々だろうか。

どういう態度が正しいなどと野暮なことは言わない。ただ、現代という時代においては、人間が作る制度よりも、自動的に進化するシステムの方が強力であるという認識が必要だ。暴走しているのはシステムであり、人間はそれを追いかけているだけなのだ。

 

■生活を問い直す

「お金があれば良い生活ができる」などというのは戯言というよりも大嘘である。世間では年収が1000万円、2000万円を高額所得と言っているが、そのクラスのサラリーマンの生活は仕事に忙殺されているだけで、豊かな生活とはほど遠い。

古い世代の多くは、旅行や外食などを豊かな生活の要素と考えているようだが、それこそただの消費であって、生活の本質とは言い難い。

本来の生活とは、日常の中に宿るものであり、それは家族の会話や共同作業、料理を作ること、庭の草木を触ることなどではないだろうか。

日本は社会変化の最先端にある国として世界の社会学者から注目されている。それは良い意味ではなく、最悪の社会という意味においてだ。家族制度が事実上崩壊し、地域コミュニティは失われ、孤独や孤立が社会問題となっている国。それが経済発展の代償だとするならば、今後、多くの国がいまの日本のような状況に陥る可能性があるということだ。

おそらく、制度的な処方箋は効力を持たないだろう。政治や社会に期待するのではなく、一人一人が「生活とは何か?」を問い直し、文明の文法という洗脳から逃れるしかない。

政治に無関心で良いとは言わない。悪政が好ましくないのは当然だ。ただ、政治に過剰な期待をするのは間違っているし、危険なことでもある。ましてや、ライフスタイルや人生の規範などに政治が介入するというのは最悪だ。それこそが自由を侵害する行為なのだ。

生活に関して、過去に規範を求めて得られるような時代ではない。私たちは、新しい生活を模索する必要に迫られている。それは画一的なものではなく、多様なものとなるに違いない。過去との大きな違いは、生活を選択する自由があるということだ。それは素晴らしいことでもあるし、悩ましいことでもある。自由は決して薔薇色ではない。(笑)