白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

SNSの光と影

SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)は、すっかり一般化した。今では中高年でもスマートフォンを使ってfacebookをしている。それはまるで新しい通信・コミュニケーションの標準であるかのようだ。一方、業界ではソーシャル・メディア・マーケティングだと騒いでいる。あるいは、ソーシャル・メディアが権力構造に変化を与えると見る社会学者もいる。中には権力構造が階層型からネットワーク型になって流動化するのだと言った学者もいる。誰もが対等に意見を述べることで議論の質が上がるとか、新しい民主主義が生まれると想像した学者もいる。はて、本当だろうか。

とんでもない。そこにはスケールフリーという法則が働いて、富める者がますます富むという構造が出来になっている。「私はfacebookを使いこなしているし、友達もたくさんいる」などと浮かれている人もいるだろう。重要なのは、友達の数などではない。どういうネットワークのどういう位置にいるのかが重要だ。友達を増やして頑張るというのは「おちこぼれ相手の互助会ビジネス」の最下層に仲間入りしたということかもしれないのだ。参加すべきネットワーク、つながるべき相手を慎重に選ばなければ、とんでもない落とし穴が待っている。もしも貴方がコミュニティに圧力を感じるならば、すぐにそのコミュニティを離れるべきだ。

ソーシャルメディアの最大の欠点は、情報の断片化、コミュニティの断片化だと私は考えている。SNSでは好まない情報を容易に遮断できる。そして、限られたコミュニティの中だけがその人の情報環境となる。それぞれのコミュニティで常識が逆転していることも珍しくはない。私たちは意識して「冗長な関係に埋もれたり、重すぎる関係になること」を避ける必要がある。最近では「つながり」という言葉が多用されているが、「つながり」を増やすことは売上や利益の増加を必ずしも担保しない。それどころか、確実に時間とコストを増やす要因となるだろう。コミュニェーションには適切な規模というものがある。それは、おおよそ150人だ。これをダンバー数という。友達の数を自慢するのは馬鹿げたことなのだ。

さて、ここまでは1年前に書いた文章の焼き直しだ。ただ、だんだんとSNSに対する見方が変わってきた。現在の利用者のほとんどは、SNSで意見表明などしない。単にコミュニティ向けのツールとしての機能の方がメインになっている。そして、そこでは言葉よりも空気が重視される。個人が世界に発信するなどというインターネット黎明期の幻想あるいは夢といったものは無くなったと言ってもよい。そういう夢を追いかけている人は活動家と呼ばれる少数派だ。もはやSNSはコミュニティ用のツール、マーケティング用のツールになったと言って良い。

一方でSNSの発展は国家と企業にとってとても都合が良い。事実上、国家はすべての個人情報をデータベースで管理できるようになった。また、このビッグデータはマーケティングを生命線とする企業にとっても価値が高い。より精度の高いマーケティングを低いコストで実現できるからだ。ソーシャルメディア上の情報や繋がりは、コンピュータで簡単に解析できる。利用者は分類・整理され、評価、格付けされることを受け入れなければいけない。SNSの利用者は自ら個人情報を提供し、その恩恵を受ける一方で、常に監視され管理される存在になるのだ。

SNSの利用者にとって「他者と自分の関係を正しく認識し、制御し、活用できるか」という点が重要であると識者は言う。しかし、それ以上に重要なことは、いったんアクセスし、書き込んだ、あるいは閲覧したことは、すべて監視可能であり公開情報に近いという事実だ。10年前、あなたはここにこんな事を書いた。その程度のことを調べるのは権力にとては朝飯前のことだ。いや、私は従順な一市民ですと油断して良いのかどうか。SNSにも光と影がある。長所と欠点がある。コミュニティの中の会話だから、と思ってはいけない。

また、情報格差という問題もある。これはハード面だけではなくリテラシーについても言える。今では就活にfacebookが必須だという。パソコンが家にないというのは絶望的なハンディだ。かと言って、国が全員にパソコンを供与するというのにも異論が出るだろう。また、持っていても使いこなせない人もいる。こうして格差は大きくなる。

さらにSNSは生活そのものを変えてしまった。多くの人がスマートフォンに浸かったような生活をしている。それを問題視する人もいるが、いったいどんな解決策があるだろう。好きならやれば良い。それとも依存症として治療の対象にしてしまうのか。考えるべきは、このSNSの使用時間の犠牲になった時間は何に使われていたのかという分析だろう。勉強だろうか、仕事だろうか、それとも・・・。

それにしてもSNSという「大いなる自由の基盤」(?)がハイパー管理システムの上で実現されるているとは皮肉なものだ。利用者はこういう現実をまずは知っておかなければならない。また、SNSによって自由な討議が可能になった以上に、世論操作が簡単になったようにも思う。そして、サイバー戦争の勝者は市民ではなく資本であることがいずれ明らかになるだろう。なぜならば、資本は頭脳を買うことができるからだ。こうして民主主義は完全に資本の傘下に入るのだ。ふむ、このエッセイはヤバイかもしれない。

(本文は、2013年7月3日にアメブロで発表済のものを加筆訂正しました。