白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

二つの貧困

今日、電話で福祉関係者と話をしていて驚かされたことがある。

「貧しいとは、食べるものがない事です」

おいおい、そんな貧困が日本にあって良いのか?

そして、思った。貧困には二つあるのだと。

貧困A:「喫茶店で友達と雑談するお金が無い貧困」

貧困B:「切りつめても、食事に困る貧困」

よく、相対的貧困と絶対的貧困という言葉が用いられるが、統計的に説明すると面倒なので省略する。概ね、相対的貧困は貧困Aだし、絶対的貧困は日本にはほぼない。

そして、福祉関係者は貧困Aを貧困と呼ばず庶民と言い換える。日本の庶民は随分と馬鹿にされているなと思う。そして、福祉関係者だけでなく、多くの一般人が貧困Aは容認されると考える。そして、生活保護の水準は民意によって世界的に見て低い水準に抑えられる。なにが先進国だ。なにが文化国家だ。笑止千万だ。

憲法25条の精神は、政府によって、そして国民によって、踏みにじられているのだ。

社会保障費をめぐる社会福祉法人の利権は巨大だ。まあ、今日はその話はやめておこう。貧困Aを無くすために、どんな制度があれば良いのかを考えよう。

貯金はあっても喫茶店にも行かないし、文化的な活動は一切しない。そういう節約家もいる。それも人生。どういう生き方をするかはまったくの自由だ。

しかし、宇野常寛氏が指摘したように、貧しさ故、日常のコミュニケーションはネットで。ハレの日だけリアルで、という若者のスタイルが好ましいものなのだろうか。

格差は仕方がない。相対的貧困レベルなら生きて行けるじゃないか。という意見は歴史に逆行している。とても文明人の思考ではない。

変えるべきは制度である以前に国民の意識である。それを作るのが御用マスメディアだ。腐敗した世界だ。

文化的貧困は経済的貧困に直結する。文化的支出を可能にするだけのセーフティーネットが欲しい。そうすれば、経済的貧困からの脱出も可能になるはずだ。

医療では予防が叫ばれているのに、貧困に予防が無いのはなぜだろう。資産があっても、病気をしたら終わり、失業したら終わり、倒産したら終わり、家族に何かあったら終わり。いや、中流は貧困にならないために走り続けないといけないのだ。

それいしても、貧困を庶民と言い換えて相対的貧困を正当化する福祉関係者というのは、いかがなものか。社会学者はもっとメディアに露出するべきではないのか。

このままでは、日本の貧困化が止まらない。それで良いのか?