白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

私は個人ではない

過去のブログに、こんなものがあった。秀逸なので、リブログする。

初出、アメブロ 2014.3.8 「私は個人ではない」 白井京月

 

近代民主主義の中で個人は独立したものとして扱われ、権利と自由を拡大してきた。個人の自由によって進歩が促進され、社会は発展し、幸福が得られると考えられてきた。しかし、個人は組織の中で、社会の中で悩み苦しんだ。あるいは考えることをやめて空洞化した。私は長い間、個人と組織そして社会のより良い関係について模索してきたが、今は個人と組織および社会を区別して考えることが誤りであると考えるようになった。

私とは何だろうか。一人の人であるとはどういうことなのか。私とは、決して独立した個人ではない。私とは、人間という命をもった生命=種のエージェント(代理人)だ。意思によって突然に生まれたのではなく、必ず親がいて、先祖がいる。人類の歴史は生命の歴史であり、私という命が誕生した瞬間から、生態系の中で生きる運命にある。

地球上のすべての生物は生態系の中で闘争と共同を繰り返しながら命をつないで行く。私とは、人間のそして自然のネットワークの一部なのであって、個人が社会を作るのではない。組織(あるいはコミュニティ)も個人も社会というネットワークの中の一つの要素である、区別して考える必要はない。

このように考えると、利己的であることと利他的であることは対立しないし矛盾もしない。基本的に地球上の生物は仲間だ。もちろん、捕食という生命の原則があるので、戦いは常に存在する。しかし、敵を食べるのではなく仲間を食べているのだと、命の宿命なのだと理解すれば、罪悪感を持つ必要もない。もっとも、人間同士の争いについては、理性的であってほしいいし、残忍さは望まないが。

アダム・スミスの「神の見えざる手」を教義とする資本主義の下で、科学技術は急速に進歩し、社会は大きく変化した。しかし、経済的な格差の拡大と貧困層の増加、そして地球環境に対する重大な影響という陰の部分を見過ごすわけにはいかない。成功者を称賛し、誰もが成功者を目指すべきだというプロパガンダは、未だに大衆にとって魅力的なようだ。

もしも、今が20世紀ならば、同じ思いを持つ個人が団結して戦うしか対抗策は無かっただろう。しかし、インターネットやSNSが発達しつつある現代においては、別の方法をとることが可能である。重要なのは、個人の考え方を変えることではなく、ネットワークそのものの性格を変えることなのだ。

どのような理念とビジョンが良いのかを具体的に示すよりも前に、「私とは何か」という哲学な問いに真摯に向き合いたい。私は決して一つの個ではなく、いろいろな意味でネットワークとつながった存在であり、ネットワークの一部である。個人として独立してもいないし、個人として自由でもない。

もっぱら自らの幸福を追求するのことは当然とされているが、自らの幸福は同時にネットワークの幸福であって、それは不可分である。(ネットワークを国家と混同してはいけない)

私とは、生命の歴史の中で偶然に誕生したエージェントの一人。生れた時から遺伝子は決定されているし、そこには既に社会があり、特定の家庭環境があった。いったい私たちに、どうやって遺伝子や環境から自由になれと言うのか。

私とは個体でもあるが、生命という世界の一員でもある。私は必ず死ぬ。いかし、生命の歴史は遥かに長く続く。それもいずれは消えるのかもしれない。しかし、私の願いは個人的な幸福である以上に、この地上の生命の健全な発展だ。なので、私という個体が死んだとしても、希望が消えることはない。

生命とは差異を含む複製だ。私の中には貴方がいる。貴方の中には私がいる。こう考えると、私という個体の死は、私の完全な死を意味しない。地球上に生命がある限り、私たちは死ぬことはない。