白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

障害者は健気(けなげ)であるべきか

私が精神障害者手帳を取得したのが51歳の時。あれからもう5年になる。

障害者になったことにメリットはあった。家事のヘルパーさんが来た。バスが無料になった。その他、各種サービスが受けられるようになった。

デメリットもある。今頃気が付いたのだが、もう一般就労は無理だろう。貧困が確定した。

最近は厚生労働省の障害者総合支援法の理念から生まれた施策がシステム的に全国展開されている。地域活動支援センターという、障害者等を通わせ、創作的活動又は生産活動の機会の提供、社会との交流の促進その他の厚生労働省令で定める便宜を供与する施設が各地にある。私も利用している。

そこで私もいろいろな障害者に出会う。症状も個性も様々だ。好き嫌いなど言ってはいけない。いや、思ってもいけない。全人格を尊重し、受け入れることが求められる。

今日は、みんな健気だということに気が付いた。健気(けなげ)。力の弱いもののかいがいしさ(真心がこもっている)が、ほめてやりたいほどであること。心がけが殊勝であること。

10年前には1兆円企業の戦士だった男が、急に健気になるのは難しいかもしれない。しかし、障害者の哲学の基本として、健気でなければいけないような気がしてきた。

障害者であることは非でもないし悪でもない。ただ、現実問題として福祉で保護されているからこそ生きていられるというのは大袈裟な表現ではないだろう。ならば、捻くれた思考など関係なく、感謝しても良いのではないか。いや、普通は感謝するだろう。

一方で、障害者になったことへの屈辱という気持ちもある。人によっては根の深い問題かもしれない。しかし、もはや勝負は終わっているのだ。チャレンジするならば、新しい土俵を見つけるしかない。

健気になれ。私は私にそう言いたい。そうすれば、みんなもっと優しくしてくれる。私は精神障害者。病気なら治るが障害は治らない。誰かがそう言っていた。

勝負は終わったのだ。不適切な表現だという人もいるが、これからは障害者世界を生きるのだ。社会との交流が対等でないことなど自明だ。健気になれ。とりあえず健気になれ。高い高いプライドは邪魔だ。風呂に入れ。