白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

障害者は可哀想か

微妙なテーマだ。まず、可哀想という心情についても、いろいろあるというところを押さえないといけない。憐みと優越感。絶対的な差異。幸運と不運。回復しないもの。

 

私は5年前に障害者になった。病状が変わったわけでもなく、行政の相談員に勧められて障害年金障害者手帳を申請したのだった。それが、一般世界から障害者世界への移動を意味するとも知らず、軽い考えで申請した。なにも、一般世界が素晴らしく、障害者世界がダメだというつもりはない。しかし、私は障害者世界に無知だった。

 

障害者手帳を取ってから、一般世界で転落した。仕事がうまく行かなくなった。自分が障害者だということに違和感を持った。事実上、障害者になってからは、仕事はしていないと言って良い。

 

後悔が無いと言えば嘘になるだろうか。今はもう、一般世界に未練が無くなった。障害者世界で楽しく生きる。そうは言っても、日常生活にさえ不自由しているのだが。

 

本題に戻ろう。私は昔、可哀想だと思う気持ちを差別的で失礼なものだと思っていた。逆の言い方をすれば、だれかが可哀想だと思ったことが無かった。しかし、3年前の入院で、すっかり考えが変わった。自分のことを可哀想だと思って欲しくなったのだ。人間として弱ったのだろうか。それとも、世界の景色が変わったのだろうか。

 

日本には、身体、精神、知的で約700万人の障害者がいる。障害の中身も程度も様々だが、概ね貧困と結びつく。本当に人それぞれだが、一般世界で生きている障害者は極めて少ない。多くが障害者世界で生きるか、ないしは孤立している。

 

可哀想。人ごとではない。人口の5%以上は障害者なのだ。明日は我が身かもしれない。その時、あるいは今、貴方は障害者は可哀想だと思うだろうか。貴方が障害者なら、可哀想と思って欲しいだろうか。

 

かっこをつけていても始まらない。障害者は可哀想なのだ。だから健常者には上から目線でもいいから、障害者は可哀想という観念を持って欲しいのだ。これを、間違った考えだと言う人もいるだろう。考え方はいろいろだ。チャレンジドなど寝言的言い換えだと思う。実態はそんなに甘くもなければ、綺麗でもない。障害者は可哀想か。これが難しい問いに思えるのは私だけだろうか。