白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

妄想と発狂のメカニズム

これから書くことは私自身の体験であって、一般的な事例ではない。それでもどこかに、狂気を紐解くヒントがあるかもしれない。この小文が、薬物中心の精神科医療に一石を投じることになれば幸いである。

私が精神病と診断されたのは、38歳の時だ。システムエンジニア、プロジェクトマネージャとして多忙で、大阪に単身赴任していた。妄想。開発中のシステムが大成功し、俺はいずれこの会社の社長になる。誇大妄想と言えるだろう。しかし、私は体調を崩し、開発は難航していた。妄想。このシステムにCIAが関心を持っている。誇大妄想に狂気が混じってきた。会社での態度が尊大になっていた。会社に精神科受診を指示された。躁うつ病だった。しかし、入院することもなく、4ケ月の療養で復帰。ただし、システム部門からは外された。

受け入れ難い現実から逃れるために、妄想を作り出す。妄想は、空想の域を超えて狂気になる。

2014年。退職金を使い果たした私は、画期的な日本の防空システムを開発したので、防衛省から25億円の報奨金が現金輸送車で送られてくると妄想した。ほかにも、いろいろとお金が入る妄想をした。理由は、お金がないという現実を受け入れられないからだ。完全に狂気である。

しかし、狂気があるだけで行動はおとなしい。お金がいつくるのか、防衛省に電話もしなかったくらいだ。頭の中だけが、いかれているのだった。

こういう妄想は時間が経つと消える。記憶は残る。妄想だなと思う。

病相が変わったのは、2016年だ。パソコン作業中に突然、「ヒヒーン。俺は精神病なんだよ」と無意識に叫んだ。そして、ベッドの上で、「ワンワンワン」と犬のように吠え続けた。発狂である。それは数十分続いたが、入院には至らなかった。

なぜ、ワンと吠えたのか。受け入れ難い現実を妄想で埋められなくなったのだ。犬に解離することで、人間世界からの離脱を試みたのだ。そうだ、これは解離の一種なのだ。

そういえば、妄想にも人格の解離が見られる。薬物療法は興奮を抑えたり、不安を取り除くことはできても、言語的側面には介入できない。だから、精神療法が重要なのだが、今の日本の精神科医療では、精神療法が廃れている。もっぱら薬物療法なのだ。

実は、昨日も久しぶりに発狂した。心の片隅に、永久入院願望があるのだ。狂気のまま生き、死ぬ方が楽だという観念があるのだ。世間の流れは脱入院だ。しかし、一般世界はそれほどに精神障害者にとって快適なところではない。まして、お金が無いとなると。

妄想。自我の分裂。発狂。解離。俺はこれからも一人暮らしを続けるのだろうか。

富が欲しい。名声が欲しい。快楽が欲しい。と、書いてみる。分裂した自我を俯瞰する自我が出てきたら良くなる可能性がある。このエントリーは良い兆しなのかもしれない。