白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

精神障害者と主体性

厚生労働省の統計は、心療内科、精神科に通院しているだけで「精神障害者」とカウントしているようだが、病歴20年の私からすると、障害年金をもらうか障害者手帳を取得する時が、自らを精神障害者だと感じる時のように思う。

私は38歳で発病し、50歳まで会社に勤めた。その間、自分が障害者だという意識はなかった。事業をやりたかったことと自由定年制度が重なって、自発的に会社を辞めた。主治医は反対だったが、私には主体性があった。

退職後、紆余曲折があって、私は障害年金をもらうようになり、手帳も取得した。そうすると行政の福祉の相談員が出てきて、相談という美名のもとに私に指図するようになった。

家賃の安いところに引っ越しなさい。実体がないんなら離婚しなさい。事業なんてやめて就労継続支援A型と障害年金でつつましく暮らしなさい。ヘルパーを利用しなさい。自炊は人間の基本です。兄は大学教授ですが料理の出来ない馬鹿者です。私は料理は得意ですよ。

この相談員はかなり特殊かもしれない。しかし、精神障害者となった私は、主体性を奪われた存在になったのだと感じていた。医師や福祉の支援者の意見に従うこと。それが当然なのだと思ってしまった。

そこから、一直線に転落した話は前にも書いた。離婚。転居。廃業。自己破産。等々。

知人に私が就労継続支援B型にも行った話をしたら、君の行くところではないよと笑われた。もっとも、今も別のB型事業所に行っているが。

もちろん、病状も最悪だったので、現在の状況には納得している。よく5年も入院せずに一人暮らしを続けているなと驚く。

精神障害者世界は独特だ。精神障害者世界も一般世界ですということもできるが、それは詭弁に近い。精神障害者世界は独特なのだ。パターナリズム。熱心な支援者の愛情。そういったものが有難くない訳がない。そして、精神障害者はそれを考える前に主体性を手放す。真に主体性を手放さざるを得ないのは、医療保護入院措置入院の時だけのはずだ。特に主治医のいいなりになりやすい。服薬はもちろんだが、私など、お金がないのなら一日家で瞑想しろと言われた。今思うと、あり得ない指導だが、私は2年間もそれに従った。今は転院している。

私も長い間、主体性、あるいは自律性を放棄していた。しかし、アルコール依存をめぐる治療をきっかけに、主体性を取り戻すことになった。私は主治医の飼い犬ではない。

錯覚もあった。精神障害者とは主体性を与えられない存在だという観念だ、間違った観念なのだが、こういう誤解は少なくないように思う。

誠に、障害者の支援は難しい。精神障害者の「好きにしてください」という主体性を放棄した発言には、どう対応するべきなのか。ケースバイケースだろう。

そうだね。精神障害者は主治医の飼い犬じゃないよね。もっと主体性を発揮して良いよね。ただね、医療福祉の世界では医者は神様気取りだからね。困るよね。