白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

私と将棋

4DAN

四段免状

私が将棋を覚えたのは、幼稚園の頃だ。鈴木さんという祖父(黒崎幸吉)の書生さんに教わった。なんでも、強かったらしい。

近代将棋」や「将棋世界」を読んで、本格的に将棋を始めたのは、中学3年の時だ。放課後はたいてい、木村君、小林君と一緒だった。神戸市立本山中学である。

大ファンだった「自在流」の内藤先生に年賀状を出したら、返信が来た。それがなんとお年玉の当たりくじ。大切にしていたつもりが、今は無い。その代わり、「図式百番」のサイン本がある。間違いなく遺品になるだろう。

高校は県立芦屋高校に行った。即、将棋部に勧誘され、入部した。先輩には、結城さん、細谷さんというアマ名人戦で県代表になった人もいる。6年先輩の県芦将棋部もT先輩(名前を出すなと言われている)の時代に全国大会に行っている。

部室も広く、盤は桂の4寸盤がずらりと並び、駒は柘植。当然のチェスクロック。私はなかなか強くなれなかったが、2年で部長になった。平野兄弟、山中君、野原君、佐々木君、西田君、私。県大会では、A、B2チームを出し、私がAチームの主将だったのだが、即詰みで負けたと勘違いし投了。結果、山中君、平野兄弟のBチームが山梨で行われた全国大会に行った。1回戦負けだった。顧問の中嶋先生は激怒していたそうな。

なお、名誉のために言うと平野三兄弟は強豪として有名で、全員県芦。なお、平野登志雄三男の時代には、全国大会の団体戦で準優勝している。

神戸新聞で、アマ名人戦地区予選のアルバイトをしていた私は、兵庫県高校将棋連盟を発足させた。事務から何まで自分でやった。第1回大会は、県立芦屋高校で行われた。参加三十数校だった。将棋倶楽部には棋譜が、近代将棋にはエッセイが載った。早熟だったのかもしれない。

自慢話はこの辺にしておこう。私が強くなったのは、大学時代だ。町田将棋センターの川嶋席主と懇意になった。歳は一回り上だ。今も交流がある。

ここには渋谷守生アマ八段(都会議員)や、真剣師が集まっていた。プロの依田先生とは特に懇意にしていただいた。「黒ちゃんと角落ちじゃ、指す気がしないね」といわれたのは嬉しかった。額面通りに受け止めたのだ。

会社員になってからは、今は無くなった渋谷の道場に通った。大阪に転勤になってからは、十三棋道館道場に通った。そこで、自分の弱さを知った。

いまは、十三に行くお金も無く、81DOJOで指している。しかし、つまらない。

ボット(AI)が登場してから、将棋は勝ち負けだけを決めるゲームになってしまったようだ。「棋は対話」と昔は言っていた。棋風があり、対話があり、遊びがあった。

もちろん真剣勝負だ。しかし、勝利を優先すると個性を壊すことにもなる。

私は朝の4時前後に外国人と指すのが好きだ。英語でチャットする文化交流。時には濃い感想戦。日本人の多くは会話もせず、感想戦もせず、勝負が終わると去って行く。

歳のせいだろうか。将棋に対して闘争心が湧かなくなっている。やはり、目標が必要か。将棋世界を定期購読しようか。それしか良いか。