白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

転落の体験談と精神障害者世界

こんにちは。白井京月。59歳です。よろしくお願いします。

今日は私の精神病体験をお話したいと思います。

1999年。38歳までは、普通の人生でした。大学を卒業し、大企業に就職し、結婚し、子供ができ、家を買い、管理職になる。絵にかいたような幸福な家庭。それが躁うつ病と診断されたことで一変します。当時、家族は東京にいて、私は大阪で単身赴任でした。長女を有名私立幼稚園に入れたからです。

発病から20年が過ぎました。経緯を振り返るのも長すぎますので、この20年を4つの時期にわけて、ざっくりとお話しておきたいと思います。

第1期は、38歳の初診から、50歳での自由定年までの12年間です。通院のきっかけは、会社での態度が尊大になったことです。システム開発のプロジェクトマネージャーをしていたのですが、CIAがシステムに関心を持っているなどという妄想もありました。躁状態です。何件かの病院に行きましたが、大学病院の教授が主治医になりました。大学病院の権威が主治医ということで、産業医は何も言わなくなりました。しかし、12年間単身赴任が解消されることは、ありませんでした。大学病院では、4回入院しました。最初は大阪のマンションで一人暮らしでしたが、途中から母の住む実家で生活していました。残業はなく、単身赴任手当はある。仕送りはほとんどしない。金と時間を持て余し、遊び過ぎた、浮かれた時代でもありました。最後は、寛解との診断を受けていました。

第2期は、退職後の2011年7月、母にM病院に連れて行かれ入院となって以降です。任意で入院させられました。医者は、2度と仕事は出来ない、早く生活保護になれと言いました。診察もしていないのに、です。この話を内科医にすると、それは医者以前に人間としてアウトだと言われました。就労は一切考えていませんでした。フリーランスで生きるか、生活保護か、揺れていました。駅前にオフィス兼住居のマンションを借りました。そして、障害年金障害者手帳を取りました。役所の相談員の勧めでヘルパーさんを入れました。2013年には再起を目指すS医院に転院しました。しかし、上手くは行きませんでした。

第3期は、2014年9月、警察に保護されてT病院に入院して以降です。この時は無茶苦茶でした。数千万円の退職金は使い果たしていました。防衛省から25億円の報奨金が現金輸送車で届くと妄想していました。1週間、隔離されました。退院の条件として、家賃の安いところへの転居、半年は仕事をしないこと、母との和解の三点が示されました。私は意味が分かりませんでした。離婚しました。転居しました。4ケ月の入院で、元のS医院に戻りました。盗難にあいました。廃業して、自己破産しました。S医院に見切りをつけK医院に転院しました。訪問看護が入りました。就労継続支援B型事業所にも、少し行きました。地域活動支援センターにも行きました。2017年11月、生活保護の申請が通りました。3年越しの折衝の結果でした。

第4期は、2018年8月、金銭管理を安心サポートセンターに委託して以降です。2018年4月、とんでもない躁状態になりました。2ケ月に1度の年金を、ほぼ1週間で使ってしまいました。記憶がありません。解離性障害です。そこからは地獄でした、K医院ではダメだと、H医院に転院しました。修羅場をくぐって、安心サポートセンターとの8月の契約にこぎつけました。通帳と印鑑を預け、週8千円を受け取る。そういう話でまとまりました。

これが転落の流れです。1日2000円と聞いて絶句していたのが、1日1000円になりました。再起など考えることもなくなりました。顔は毛むくじゃらで、着る服すらないのです。

薬の影響でしょうか、知能の著しい低下。好奇心と集中力の欠如。喜びの感情の喪失。人間としての劣化が進んでいます。

どうしてここまで転落したのでしょう。偏に、家族が無かったということに尽きます。相談相手が誰もいなかったのです。会社を辞めた時も、離婚した時も、自己破産した時も、誰にも相談しませんでした。事業も同じです。一人でした。

家族は薄かったです。私の責任ですが、元妻とはすぐに離婚の話がまとまりました。父は親切でしたが、新しい奥さんとのことで、私を家にはいれてくれませんでした。相談しても自分で決めろ。整形外科入院の保証人にもなってくれませんでした。母は、私をM病院に送った犯人です。私はこの件で、警察に監禁罪の被害届を出しました。不受理でしたが、母とはいろいろと確執があります。

孤独。両親も健在ですし、元妻も、実の娘も健在ですが孤独です。どこにも家族が無いからです。もっとも、それは珍しいことでは無いのですね。よくある話と言えば、それまでです。

思い出。そんなものを語っても意味が無いですね。それよりも、精神障害者世界に入るとはどういうことなのか、という情報の方が有益でしょう。

私は在職中には手帳も年金も取っていませんでした。フリーランスで生きるか、生活保護になるか、迷いに迷ったのが、第2期です。結局、障害年金を受けたことで、障害者としてのアイデンティティが生まれました。私は障害者なのだ。これは、第1期には、思いもしなかったことです。

さて、精神障害者世界とは何でしょう。それは、精神障害者と、その支援者からなる世界です。訪問介護がそうです。訪問看護もそうです。障害者就労継続支援のB型というのがあります。A型もあります。地域活動支援センターがあります。私は会社をやめるまで、その存在すら知りませんでした。驚きの連続でした。一般世界とは異なるもう一つの世界。それが精神障害者世界です。ここでは、一般世界の常識が覆されます。一つには金銭感覚が破壊されます。もう一つは障害者として、保護的に扱われます。それは、時として居心地が良いですし、時として居心地が悪いです。そしてもう、一般世界には住めないなという妙な空気が出来上がります。そうなのです。一度入ると出られない。それが障害者世界なのです。

私の今の生活をお話すれば参考になるでしょうか。
週1回の精神科通院。週2回の訪問看護。週3回の家事支援のヘルパー。月曜から金曜の就労継続支援B型。土曜日の地域活動支援センター。多くの支援者に支えられて、なんとか生活をしているというのが実態です。

酷い時期が何度もありました。妄想、金欠パニック、喘息の発作、腰痛、骨折、パニック発作、心臓発作、毎月のように何かがありました。2018年にはアルコール依存症になりました。いま、こうして生きているのが不思議なくらいです。

転落。それは一連の流れを眺めた人の言うことですね。私自身、転落を眺める余裕もなかった。日々、生きることに追われていた。それは、今も変わりません。

精神障害者になるということ。それは精神障害者世界で生きるということです。多分、出口はありません。驚き、悲嘆、落胆、いろいろな感情が渦巻くことでしょう。家族のいる人はべつですが、一人暮らしは孤独そのものです。グループホームなどの施設も足りないのが現状です。

社会的生命を奪われる病気。それが精神障害です。好ましくないかもしれませんが、それが日本の現状です。私も、精神障害者世界で、慎ましくいきるしかないと言い聞かせています。
私の知る精神障害者は概ね、健気です。それが、この世界での成熟なのかもしれない。そんなことを思う、今日、この頃です。

 

(初出、シナプスの笑い、Vol40.ラグーナ出版)