白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

グローバル時代の企業戦略

2008年度 第24回 高橋亀吉記念賞 応募論文

 

「グローバル時代の企業戦略」 

論文のテーマ:日本企業は新たな成長戦略をどう描くべきか

-21世紀特有の課題をこなしつつ、どのようにイノベーションを起こすべきか-

  

1. はじめに

2. サイバー経済の時代

3. 利益モデルを点検する   

4. ゲーム理論で考える

5. 日本ブランドの再構築

6. 外部不経済との闘い

  

プロフィール

氏名:黒崎公平(ペンネーム)本名:黒崎逸郎

住所:

電話番号:

1961年生まれ

1984年某大手メーカーに入社

現在に至る

   

 要約:

本論では、現在の世界経済の中で企業が置かれている特殊な状況について概観する。

さらに、そのような環境下での企業戦略の中で、利益モデル、ゲーム理論、の重要性を説くとともに、日本というブランドの再構築を提唱する。

また、経済学的な視点から、外部不経済という重要な問題に対し、企業がとるべき姿勢についての意見提起を行い、日本が世界の先進的なモデルとなることを要請する。

 

 1 はじめに

 私がこの懸賞論文に応募した動機は他でもない。この懸賞論文のテーマそのものに対する異議申し立てが必要であると考えたからだ。それは、<日本企業>という区別に対する違和感であり、<成長戦略>という方向性に対する違和感から生まれたものだ。

 このグローバル経済の時代に、日本企業と外資系企業を分けて考える意味がどこにあるのだろうか。例えば、日本を代表する企業の一つであるソニーのCEOは、ハワードス・トリンガー氏である。日産は日本企業なのか。中小企業でも従業員の過半数が外国人という企業はどうなのだろう。東証一部上場企業に占める外国人株主の構成比はどうなっているだろう。また、日本企業の現地法人はどうだろう。つい最近の北京オリンピックで日本選手が現地法人の練習施設の利用を断られるというケースがあった。「日本」を強調する、このドメスティックな発想=常識が、一つの落とし穴になっているのではないだろうか。

 グローバル化の本質は、新自由主義にあるのではないと私は見ている。そこにあるのは、技術的イノベーションだ。衛星放送が東西の壁を壊したように(※1)、インターネットの普及が世界をフラット化させた(※2)、そして、金融工学という高度な数学の発展がコンピュータ・ネットワークの普及と融合して、サイバー経済が生まれた(※3)のである。現在のグローバル経済という環境は、1980年代とは全く異なる資本主義であるということを理解しておかなくては、ここからの議論は始まらない。

 現在の世界経済を、金融資本主義という若干の揶揄を含んだニュアンスで呼ぶ人もいるようだが、私としては、小島寛之氏の造語である「サイバー経済」という言葉が、もっとも価値中立的で、現実を的確に表現していると思う。デリバティブはリスクを最小化することで巨大な投機を可能にする。巨大な資本が瞬時に国境を超える。さらにこの数学は、未来の利益を現在化してしまう。もっとも、不確実性からは逃れられないわけで、90年代には、ブラック=ショールズ公式でノーベル賞をとったショールズのファンドが破綻したし、最近ではサブプライムローンの影響で世界の金融が危機に陥っている。ジョージ・ソロスは最近、「スーパーバブルの崩壊」という言葉を使っているようだが、状況が不確実性に満ちていることは言うまでもないだろう。

 だからと言って、私たちがグローバル化の負の側面だけに注目してそれに反対することは論理的ではないし、合理的でもない。(グローバル化にいくつかの問題があると指摘することで、反グローバル化を主張することは、論理的ではない。)もはや、このグローバル化した「サイバー経済」に、いかにうまく対応するかこそが、重要な課題なのである。このような環境下で、日本企業と外資系企業とを区分することに、あまり意味はない。

 重要なのは、日本経済であり、日本国民なのだ。現在のいわゆる日本企業が経営陣の既得権保持のために過度に防衛的になることは、日本経済および日本国民の利益にはならない。グローバル時代において、企業や資本の国籍など、さほど重要な問題ではない。また、<成長戦略>に対する違和感については、別章で述べることとする。

 

2 サイバー経済の時代

 サイバー経済の時代に企業が抱える問題は、優良企業であればあるほど、投機のターゲットになるということだ。投資と投機の違いについては説明する必要もないだろう。投資とは、資金を将来の生産要素に投入することであり、株の売買で言えば配当に期待する人は投資家である。一方、投機とは市場価格の変動を利用して利益を得ようとする行為であり、株の売買で言えば利鞘で儲けようとしている人は投機家である。

 一般人であれば、僅かの株を買って楽しむのであるが、巨大資本、巨大ファンドは会社ごと買いに出る。昨今は、大M&Aの時代とも言われ、防衛的な合併や、敵対的買収が巨大企業で次々と起きていることは、皆さんの方がよくご存じだろう。

 経営者は常に、トービンのq(※4)を意識しなければならない。

さらに、ROEを強く意識しなければいけない。重要なのは、昔のように売上規模やシェアではない。経営者は従来の、サイバー経済以前の時代の経営常識を見直す必要がある。もはや、過去の常識は通用しないのではないかと疑う必要がある。また、マスメディアも同様に、従来の経営常識を疑う必要があるのだ。

 日本はすでに、世界の中で競争力を落としているだけでなく、アジアの中ですら存在感が薄くなっている。この現実に疎いリーダーが日本には未だ多い。経営者が、時代は変わったのだという事を強く認識し、過去の常識を捨てなければ、新しい時代を生き抜くことは出来ない。

 サイバー経済のもたらすもう一つの問題が、格差の拡大であり、雇用の問題だ。アメリカでは、1995年から2004年までの10年間で、資産100万ドル以上の世帯が倍増し、900万世帯を突破した。(※5)嫉妬深い日本人、いや日本のエスタブリッシュメントを考えると日本が同じような世界になるとは思えないが、それでも知識社会というものは本質的に格差を拡大する方向に働く。

 そもそも、雇用には2種類ある。大胆に言い切るならば、実力主義の需給に見合った雇用と、制度化された福祉的機能の付与された雇用の2種類だ。前者は常により高い報酬を求める。そして、働く場所を選ぶことができる。一方で後者の仕事は代替可能であり、賃金は、ほとんどの場合、雇用主の裁量に委ねられる。そして、ここ数年の趨勢として、正規雇用が減り、非正規雇用が増えているわけだが、この平均賃金の伸び悩みが内需を縮小させる要因となっていることは間違いない。本年の「労働経済白書」には生産性の停滞を持たらしているとまで書かれているのだ。

 しかし、この問題は実に悩ましい。文明の進歩は労働力の減少を生む。、数年前にはワークシェアリングが真剣に議論されていたのだ

が、あの話はどこへ消えてしまったのだろうか。

 P.F.ドラッカーは、企業であることの最大の意味は、赤字であれば倒産するということ、不要な企業は消滅するという事だと言い放った。しかし、そうすると雇用はますます減るのである。福祉を充実させるにしても、それなりの財政基盤が必要になる。

 そう考えると、日本は企業の成長といった小規模のものではなく、複数の新しい産業を育成し、世界的なものへと発展させなければいけない時期に来ている。私見では、それは観光であり、農業であり、コンテンツ、デザイン産業である。日本=製造業=輸出、という常識は、もはや通用しない。

      

3 利益モデルを点検する

 企業の本質とは、固有の技術、あるいは固有の知識、ノウハウである。固有のもの、独自のものが無ければ企業として存在する価値はない。「固有のものなんてウチにはないけど、経営は順調だよ」という経営者もいるだろう。しかし、それは違う。固有のもの、言い換えると「強み」、さらに言い換えると「競争力」に気がついていないのだ。たとえば、常連の顧客について詳しい。これだけでも、固有の知識なのである。

 エイドリアン・スライウォツキーは、その著書「ザ・プロフィット-利益はどのようにして生まれるのか」(※6)の最初に、この「顧客ソリューション利益モデル」について解説している。なお、同書では、他にも、時間利益モデルや、専門品利益モデルなど、23の利益モデルが示されている。もちろん、23個しかないというわけではない。重要なのは、自らの強みを生かした利益モデルを確立すること、そしてさらに新しい利益モデルにチャレンジして成果を得ることだ。

 ややもすると、強みを利益に変換できていない企業が多いのではないだろうか。従来の会計的な損益分岐点を中心とした発想は、いまや利益モデルでもなければ戦略でもない。それらは、基本中の基本であり、問われているのは戦略の質、利益モデルの質なのだ。

 さらに、各セクションでは、これらの戦略が課題として明確化されているにも関わらず、経営レベルで全社的にオーソライズされていないというケースも多いのではなかろうか。ここでは、まさに経営の戦略センス、戦略能力が問われている。そして、その戦略は当然ながらサイバー経済時代の戦略である。サイバー経済で思考できる、従来の常識にとらわれない経営者やストラテジストが企業には必要なのだ。

 しかし、日本の企業には、雇用慣行という大きな障壁がある。本来、有能であれば、20代でも、30代でも、数千万の年俸を与えるべきなのだが、それを出来ない企業が多い。有能な人材(少なくとも、そう自負する人材)は、外資系や金融系、あるいはシンクタンクにばかり集中していないだろうか。ディヴッド・オグルヴィ(※7)は、「ピーナッツでは猿しか雇えない」という刺激的な言葉を用いたが、それは事実に近い。それでいて、一般企業は、有能な人たちのコンサルティングを、より高い金を出して受けるのである。彼らの報酬が成功報酬である場合は少ない。こういった雇用慣行を見直さない企業は、国際競争力を持ちえないだろう。繰り返しになるが、障壁は日本の雇用慣行であり、企業文化である。昨今では、終身雇用、年功序列への回帰願望が復活しているようだが、そのような幻想は捨てなければいけない。それは、企業の問題ではなく、政府の、それも福祉の問題でしかない。

 

4 ゲーム理論で考える

 企業におけるヴィジョンには、自らのポジションが明示されていなければいけない。例えば、グローバル・プレイヤーなのか、リージョナル・プレイヤーなのか、ドメスティック・プレイヤーなのかという分類も必要だ。それによって、PEST分析(※8)の範囲も規模も、大きく変わってもくる。

 売上規模が小さいからといって、グローバル・プレイヤーになれないかというとそうでもない。希少性のある精密機械などであれば、それだけで高い世界シェアを得ることが出来るだろう。逆に、売上規模が大きくても、グローバル・プレイヤーにはなり得ない企業もある。また、規模の拡大を目的として世界に進出するというのは、ヴィジョンなき拡大であり意味がない以上に危険なことだ。こういう失敗事例、海外に進出しながら撤退した例は少なくない。単なる規模の拡大はヴィジョンではない。それらは、ヴィジョンを実現する上での指標に過ぎない。ヴィジョンとはより本質的な価値であり、より本質的な意味である。それは、企業としての存在意義そのものなのだ。

 従来の資本主義=サイバー経済以前の資本主義では、競争は常に奨励され、寡占は悪とされてきた。競争こそが公正な取引の条件だとされてきた。しかし、最新のゲーム理論では、このようなモデルが決して望ましい状態を招くとは言えないことが証明されている。例えば、非協力ゲームであるナッシュ均衡(※9)などがその良い例だろう。簡単に言えば、二つの企業が互いに値下げ合戦をするしかなくなり、お互いに倒産するようなケースであり、このような状況では、非協力ゲームは社会的な損失となる。

 もちろん、公正取引は重要ではあるし、法的な制約もある。また、公正取引に関する市民の関心は極めて高く、談合などはCSR(企業の社会的責任)の以前の問題なのであって、断じてあってはならない事は言うまでもない。しかし、一方で様々なゲーム理論を駆使して、競合との戦略を見直すことが決定的に重要である。「勝てるから戦う」のではなく、「利益を最大化できる戦略を用いる」ことだ。日本企業は国際的に見てROEの水準が低い。その背景には、利益よりも規模やシェアの拡大を優先してきた高度成長期のメンタリティがあるのではなかろうか。

 グローバル化された現在、企業の核となるものが「利益モデル」であることは前章で述べた。マーケティングでは、「3C」(※10)という事が言われるが、競合との関係についてはゲーム理論を駆使しなければいけない。それは、ここに書き尽くせるるようなものではない高度な数学である。最近では、非協力ゲームではなく、協力ゲームの研究の方が盛んに行われている。経営はゲーム理論に強くなくてはいけない。

 

5 日本ブランドの再構築

 戦後日本の経済発展を牽引したのは製造業であると言って差し支えないだろう。そして、その背後で通産省がうまい舵取りをしたということも一般的な評価として定着しているところだ。しかし、既に述べたように、グローバル化の中で、メイド・イン・ジャパンという「ブランド」はすでに陳腐化している。生きているのは、固有のコーポレートブランドあるいは、カテゴリーブランドや商品ブランドだ。 

さて、ブランドとは何だろうか。それは識別のための記号ではない。それは信用であり、さらに進めば愛着となる。ブランド力があるとは、簡単に言えば価格差、あるいは性能や品質の差を覆す力だ。そうでなければ、高級ブランドなど売れるはずもない。もっとも、ヴェブレン流(※12)に解釈すれば、そのような消費は愛着ではなく顕示なのかもしれないが。

私は、はじめにで、日本企業と外資系企業を分けて考えるという発想を否定した。しかし、日本という国、日本という土地、日本という文化が多くの可能性を持っていることを否定したのでもなければ、日本の持つ独自性を否定したのでもない。むしろ、これからは、日本の独自性を強みとして、企業の、あるいは国民の利益にして行かなければいけないと考えている。

製造業においては、世界はフラット化している。技術や頭脳は簡単に国境を超える。サービス部門の労働力も、通信回線を通してボーダーレス化している。某大手パソコンメーカーのコールセンターは中国にあり、中国人が流暢な日本語で対応してくれる。地理的な制約がなくなり、システム・エンジニアは自宅から世界の仲間と共同でソフトウエアを開発している。

既存の製造業のブランドに対する誇りは十分に理解できる。しかし、国家という単位で見るならば、もはや製造業主導の経済では、日本は立ち行かないだろう。新しい産業、新しい需要が必要なのだ。それが闇雲に海外に進出することで無いことは先に述べた通りである。

日本は観光資源に恵まれている。真剣に観光立国を構想するのは国家戦略レベルで重要である。これは、地方の過疎化対策にもなり、一石二鳥である。

もう一つが、漁業や農業である。昔は、北海道で獲れた一番良い食材は築地にあると言われたが、どうやら今は香港まで行くらしい。食糧自給率の問題と合わせて、日本の食の安全性と質の高さを世界的に有名なものとすること。これも一石二鳥の国家戦略と成り得るだろう。

さらに、日本が世界に誇る文化として「漫画」がある。今年は「デスノート」や「スラムダンク」といった良質の映画やアニメがアメリカで公開され好評だったようだが、その利益の多くが日本には来ていない。このようなコンテンツ産業において、どのような世界戦略を展開できるのか。今後の重要な課題だと思われる。

また、世界はフラット化している。しかし、その前提は英語である。英語が出来ないという事は、フラット化した世界の下に位置していることも忘れてはなるまい。

 

6 外部不経済との闘い

さて、21世紀最大の課題の一つに環境問題がある。これは典型的な外部不経済(生産や消費などの経済活動が当事者以外に損出を与える場合を指す)の問題でもある。

前出の経済学者の小島寛之氏は、「エコロジストのための経済学」の中で、ピグー税(例えば、環境破棄相当分に課税する環境税など)は、その外部不経済の測定が困難であるとして否定的な意見を示しているが、先のゲーム理論に立ち返って、企業の側から環境税を提言しても良い、と考えるのは私だけだろうか。

環境問題が深刻化する今日、市民は企業のCSRに特に注目している。エコは、ブランドイメージとして決定的に重要である。さらに、エコ活動が環境にどの程度良いかは科学的に計算できないだろうが、悪くないことだけは明らかだ。であるならば、ピグー税は、企業の利益とも一致するのではないだろうか。       

 もはや、過去の常識は通用しない。P.F.ドラッカーが既に述べているように、私たちは文明の分水嶺を越えているのだから。

-了-

 

※1)情報が世界を変える―衛星・ボーダレスの時代 徳久勲著

   丸善ライブラリー 1991

※2)フラット化する世界(上・下)  トーマス・フリードマン

   日本経済新聞社 2008

※3)サイバー経済学 小島寛之

   集英社新書 2001

※4)トービンのq=(企業の株価総額)÷(企業の再取得費用)

※5)ザ・ニューリッチ ロバート・フランク

   ダイヤモンド社 2007

※6)ザ・プロフィット エイドリアン・スライウォツキー著

   ダイヤモンド社 2002

※7)ディヴッド・オグルヴィ 現代広告の父と呼ばれる人物

※8)PEST分析 マクロな変動要因である、政治、経済、社会、技術の分析、PESTはそれぞれの頭文字。

※9)ナッシュ均衡 双方の支配戦略が結果として必ずしもパレート最適とならない場合がある。ジョン・ナッシュが複数解での均衡というアイデアを出したことから、ナッシュ均衡と呼ばれる。ナッシュは、1994年にノーベル経済学賞を受賞。

※10)3C 顧客、競合、自社、の頭文字。

※11)ソースティン・ヴェブレン 経済学者 1857-1929

※12)エコロジストのための経済学 小島寛之著 東洋経済新報社 2006